Rain






   乾燥気味なシュテルンビルドには珍しく、空は禍々しいまでの闇色の曇天で、ドオドオと音を立てて豪雨が降り始めた。地面から降ってるのではないのかと、逆の錯覚をするほどに濛々(もうもう)と叩きつけられた無数の雨粒が跳ね返る。視界不良さえ起こす滝のような雨は、歩く人々に襲い掛かる。辺り一体までを容赦なく水浸しにしていった。


 カリーナは重く暑い雲に、形の良い眉を顰(ひそ)める。街を見下ろす高層マンション最上階の一室で、窓を見遣(みや)っている。
雷を心配しながら、部屋の主を待っていた。
 隣でクゥンと鳴くジョンを優しく撫でる。
「何も…こんな日にまで、パトロールへ行かなくったって良いのにな」
 そうは言ってもキースは心配しないで欲しい、大丈夫だから。帰ってくるからと、あっという間にヒーロースーツに着替えて翔けて行ってしまった。
そういう真面目な所は、口にはしないけど尊敬してる。ヒーローとして凄いとも思う。
「でもね、やっと逢えたのに恋人としてはどうなのよ」
 女子高生でヒーローでアイドル。睡眠時間はいつも短い。現キングであり、謹厳実直を絵に描いたキースとは擦れ違いばかりで。
あんまりにも逢えないことに腹が立ち、勢いに任せて押しかけたのがさっきの話で――。


 連絡もせずに来ちゃった私を、キースは喜んで抱きしめてくれた。
「…そこまでは良いんだけど、ね〜」
 パトロールの時間なんだ。と、置いてかれたのもついさっきだ。
(キースの馬鹿)
 優しいから。彼は優しい人だから。無茶をした私を叱る こともしない。困った人を助けたいからゲリラ雨だろうと パトロールを休まない。
「……――」
 カリーナは嘆息すると、濡れて帰ってくるキースのために、シャワールームへお湯を張りに立った。



 酷い雨だ。
増水した川へ足を滑らせ落ちた子供を助けていたら、大分時間がかかってしまった。
「カリーナは…まだいるだろうか」
 久々に逢えて、どれだけ嬉しかっただろう。こうやって彼女は、いつも私をいとも容易(たや)く幸福にして仕舞う。
 キースはジェットパックの出力を最大にする。流星のような速さで、カリーナがまだ居ることを祈りながら、帰路をひた急いだ。


 ベランダから部屋へ戻ると、ジョンが出迎えてくれた。
「ただいま、ジョン」
 わふわふと元気よく駆け寄るジョンを、濡らさないように気をつけつつ部屋を見渡すが、カリーナは見当たらない。
「カリーナ、いるのなら返事をしてくれないか」
 やや大きめに声を出すも返事は、無い。
(帰ってしまったのか)
 キースはガックリと肩を落とすと、水を吸ってすっかり重たくなってしまったヒーロースーツを手早く脱ぐ。
シャワールームへ入るとお湯が既に張ってあった。
「…ありがとう、カリーナ」
 冷えた身体には温かなお湯が何よりも効く、生き返るようだ。
すっかり暖まってからリビングへ行くと、サーモマグがあった。
「? 置いた覚えは無いが」
 手に持つと、重たい。キャップを取ると湯気が昇り、珈琲の良い香りが鼻孔をくすぐった。
ソファーへ座ってゆっくり飲む。いつも彼女が淹れてくれる味だ。
「美味しいよ、実に美味しい」
 せめて、見送りたかった。そう思うと居ても立ってもいられず、玄関の方に身体は勝手に動く。
「――!?」
 キースは玄関で予想もしていなかったものを見た。
 慌てて寝室へと飛び込むと世界で今、一番に逢いたい人が安らかな寝息を立てていた。
 彼女を捜した時に、寝室だけは頭から居ないとドアさえ開けなかった。玄関で彼女のパンプスを見て、もしかしたらと思ったが。
「疲れて寝てしまったんだね…すまない、こんなに待たせて」

 華奢な身体に毛布をかけ直すと、キースの気配にカリーナがもぞ、と動いた。
「キー…ス」
「ただいま、カリーナ」
「う…ん……また…どこか、行くの?」
「どこにも行かないよ」
「……そう」
 まだ夢の国に半分いるカリーナは、行かないと言ったキースへ安心したように微笑むだけだ。

 何故か、無性に泣きたくなった。ずっと待っていてくれた美しく優しい恋人が、愛おしくてならなかった。目頭がジンと熱くなる。
「カリーナ…愛しているよ」
 ベッドへ腰掛けたキースの重みで、スプリングが軋んだ。
亜麻色のフワフワした髪を撫でると、嬉しそうにカリーナは眼を細めた。
「うん…」
「――起きて欲しいな、私のお姫様」
 そっと唇を奪うと、カリーナは何度かアーバンの瞳を瞬かせた。
「おはよう」
「…キース? え、ゆ…夢じゃないっ!?」
 ガバッと起きたカリーナへ、キースは愉快そうに首肯する。
(えぇと、エート…アタシ、完全に寝てたわ!!)
「夢じゃなくて、私も嬉しいよ」
 ちゅっ、と音を立てて口接(くちづ)けたキースは目許をほんのり 朱くして微笑む。
 抱きしめると、彼女の香りがした。
(嗚呼、本物だ。)
「色々と私へ気遣ってくれて、ありがとう」
「そんな…――。良いのよ、たいしたことじゃないし」
「お姫様を待たせて仕舞った私に、挽回のチャンスを下さいませんか? これから君の時間がまだあるのなら、ディナーへ誘いたいんだが」
「ありがと、でもいいわ」
 首を横に振るカリーナにキースは落胆の色を見せたが、白い繊手へゴツゴツした己が手を重ねる。
「帰るなら、せめて送らせて欲しい」
「か、帰らないわよ! まだ。違うの、ケータリングじゃ駄目? …その……なるべく、二人っきりが良いなっ……て」
 ゴニョゴニョと尻窄みになる声は、しっかりと男の耳へと届いていた。


「素敵だ、実に素敵な提案だよ」
「フ、フ〜ン。あっそう」
 真っ赤になって横を向くカリーナはひどく愛らしい。
キースは我知らず破顔する。
「ピザが良いな、それとペプシね!」
「それはいい、ついでにデザートも頼んで仕舞おうか、アイスで良いかな」
「ちょっと待って!! デザートは――」  どれにしようと真剣に携帯の画面と睨(にら)めっこし始める。 「君は本当に…」  ささめくような独白は没頭するカリーナの耳には入らなかった。


(――簡単に私を幸福にしてしまうんだ。)
 ディナーになったら次のデートの話をしよう。君が行きたい所の話をしたいよ。

 キースはメニューを注文しながら、ごく近い幸福な未来へと想いを馳せた。





【了】

2013/04/02