秘すれば花と

 

 

 

 壁のように切り立った崖に立たされているような恐怖が、夢でも千鶴を間断無く苛む。千鶴は耐えかね、ようようと重たい瞼を開けた。外は仄かに白みがかり、夜は未だ明けきってはいないことを知る。しんとしていて物音一つすらしない。
「………」
 気配に聡い、新選組の幹部達の部屋は近い。もしかしたら、こんな時間でも監察方の隊士が自分の動向を見張っているかもしれない。衣擦れ以外の音を立てるのは酷く躊躇われた。

  ――余計な詮議は死を早めるだけだから。

 それでも息苦しさから我慢出来ず、千鶴は新鮮な空気が欲しくて慎重に部屋の隔子窓を引く。滑るように開けられた窓からは、どこまでも切れ間無く厚い雲が広がる空が見えた。鈍色がかった曇天のもと、ふわふわと真白い粉雪が舞っている。
「………」
 年は新しくなったばかりで寒さは厳しく、息は吐く側から白く凍る。
疲れは感じるものの眠気は遠くなる一方だ。今更、蒲団にもぐりこんで起床時間まで寝直すことも出来ず、千鶴は身体の芯が冷えきるまで灰色の空を眺めていた。




 朝食当番ではなかったから勝手場へは行かず、真っ直ぐに千鶴は広間へと向かう。
覆水は盆に返らない、それが分かっていても千鶴の胸は重く塞がったままだ。
ふと顔を上げれば誰よりも近しく、まるで兄のように今まで接してくれていた十番組組長、原田左之助が視界に入る。優しく包容力のある彼が
いるだけで、どれだけ慰められたか分からない。だけど一昨日、その関係が揺らいでしまった。
まるで実の妹のように扱ってくれていた彼が、状況が致し方なかったとは云え、唇を奪ったから。彼を見れば動揺するばかりで到底、平常心
ではいられない。
女として見られていないと嫌になるくらい理解しているし、あんなにもてる原田さんが色気もない子供な私を意識してるとか、そんな思い上がり
はないけど。
 ただあの柔らかくて熱い唇が、必死で抑え込んでいた名前を付けることさえしなかった感情に、否応なく名前を付けた。そう、今まで顔を背けていた浅ましい想いを否応なく自覚させられたのだ。
「いただきます」
 土方の合掌で、意識がはっと目の前の膳に戻る。とっとと食べなければ片付けられない。悩みから食欲が減退しようが、残せば周りに不必要な心配をさせる。掻きこむように喉へ椀の中身を流し入れた。
「っーーーー!!」
 慌てたのがいけない、熱い味噌汁が千鶴の舌を勢いよく通過する。咄嗟に悲鳴を上げそうになるが、寸でのところで持ち堪える。が、後の食事は悶絶する痛みを伴ったのだった。
 原田は朝から難しい顔で膳と相対している千鶴に、また何かあったのかと他の幹部に判らないようにそっと様子を窺う。
 一昨日、傷つき新選組を出奔しようとするあいつを止めた。そしてその元凶とも云えるだろう山南さんを昨夜、話をつけて釘を刺したが…――。
萎れた花みてぇに、小さくなって。一体、何があったんだよ。
 原田は頭をガリガリと掻くと、朝食をそこそこに街へ消えた。



 

 屯所の門を抜け、大通りを目指して歩く。
歩きながら羅刹になった彼のことを考えた。同じ立場であれば、やはりああなるんだろうか。糸のように頼りなく消えそうな理性を、焦りが全て喰い尽くす。
新選組が負けて無くなれば、羅刹は晒し者にされた挙げ句に糾弾され、殲滅という結果になる可能性はある。そうでなければ、身体が灰塵と帰すまで血に踊らされ戦わされ続けるのか。どちらにしようが、地獄のような辛い時間しか残されていないのが現実だ。
千鶴は血に狂う症状を改善出来る可能性があると、山南さんは云う。彼らからすれば絶望の中の数少ない光なのだとしても。
羅刹は人の手には余る。
女子供を犠牲にして切り刻んで弄んで、何が正義だ。正道を一旦でも失えば、もう二度とあの誠の旗を胸を張って掲げられなくなる。それは隊士として組長として、幹部として許せない。
「そんなん、あんたの方が知ってるんだろうけどな…」
 泰平の徳川の治世以前に、石川五右衛門という稀代の大泥棒がいた。彼は仁義を通す義賊でもあったらしい。武士や弱い物を虐げる身分の高い奴らから盗みを繰り返し、果ては戦争を繰り返す為政者、太閣秀吉の寝所まで忍び込んだ。勿論、太閣の怒りは深く処刑は見せしめにしても残酷極まりなかった、と寺子屋の師が言っていた。
巨大な茹で釜で、一子もろとも油で煮る。油は水より熱くなる、それでも五右衛門は最後まで幼い我が子を両手で天にし熱さから守ろうとしたと。だが、熱い。熱くてその我が子を踏みつけて下敷きにして死んでいったという。
苦しければ苦しいほど、助かりたくなるのなら。新選組の勝ち目は薄い。山南さんはもう、狂いかけてるんじゃないか。
 原田は薄ら寒いものが背中を駆け上るのを感じた。
どれだけ生きたくったって、綺麗ごとじゃなく弱ければ死んじまう。腹を詰めた俺が生き延び、死にたくない奴が最前線で死んでいく。運もあるが、紙一重だ。それだって人の話でしかない、羅刹は世の中の摂理にはないものとされてしまった。摂理からはみ出た彼らは誰よりも孤独だ。
「でもな、千鶴まで独りにしたくねぇんだよ」
 原田は呟くと、足早に目的地へ歩みを進めた。




 冷え冷えとし屯所の庭を千鶴は一人、箒で掃き清めていた。
かじかむ手に息を吐きかけるとピリリと舌が引きつった。
「う~……」
 切り傷の治りは早いのに、内臓の火傷は怪我よりも治癒が遅い。この調子だと晩御飯にギリギリ間に合うかどうか、かも。
 ざり、と砂を踏みしめ掃くことに千鶴が意識を集中していると、赤みがかった髪の男に声をかけられた。
「千鶴、悪いが俺の部屋まで茶を淹れてくれねぇか?」
「原田さん、おかえりなさい」
「ただいま。茶は二つ頼むわ」
「はい」
 喋ると、痛い。
小さな声で、しんどそうに頷く千鶴を見て原田は眉間に皺を寄せた。
「…どっか苦しいのか?」
「え?」
「辛そうに見える」
 付き合いが長いから判るが千鶴は我慢強い。倒れるまで無理をする。
真摯な眼差しに千鶴は瞬間、痛みを忘れた。
「大丈夫で…っーーー!」
 たいしたことないんです、と続けたかったけれど、舌がひりつく。
思わず涙目で背の高い原田を見上げると、頭を撫でられた。あやすような優しい手のひらに、申し訳なさで一杯になる。
「無理すんな、ゆっくりで良いから茶、持ってきてくれ。待ってる」
 どちらにせよ、こんな庭先で千鶴の胸を痛める憂慮を聞き出せないと判断した原田は、ぽんぽんと頭を軽く撫で部屋へ戻る。
千鶴は広い背中を見送ると、掃き掃除を切り上げ勝手場へ急いだ。
お湯を沸かし、丁寧な手つきで茶葉を急須へ入れる。沸騰した湯を茶碗に注いでから、急須へ注ぐ。熱すぎる湯は風味を飛ばす。一つ間に冷ます位が大抵、美味しい。茶碗も温められて淹れる茶との温度差も解消される。さっと急須を洗い片付け、盆に二つ茶を乗せる。
 原田の部屋へ入ると、二人きりになった。
「あの、どなたかいらっしゃるんですか?」
「ははは、そうじゃねえよ。俺が千鶴と茶を飲みてぇって思ったんだ」
 艶を含んだ視線に千鶴の動悸は早くなる。
頬を可憐に染める千鶴に苦笑しながら原田は上機嫌に土産を開いた。金鍔である。これを求めて街まで行ったのだ。
「前、これ好きだって言ってたからさ。食べようぜ」
 千鶴の表情が、みるみる内に明るくなる。原田もつられて笑った。
「……――っ」
 大好きな、金鍔(きんつば)!
でも今、食べられないよね………。
「今日はその、もうお腹がいっぱいで、後で頂いても良いでしょうか?」
「朝なんて、残してたじゃねぇか」
「うっ…」
 結局、食べきられなかったの、み、見られてた!?
「それとも、やっぱり不躾に口接けたこと怒ってんのか?」
 大好物だってのに。
「いいえ!違うんです、違っ…ッ――!!」
 千鶴はつい大声を出して反駮するも舌の痛覚が盛大に刺激される。余りの痛さに思わず手で口を覆った。
「千鶴、なんか気にいらねぇことがあるのなら、云っちゃくれねぇか?」
 ふるふると頭を振っても原田は納得しない。
千鶴は憮然とした原田に、ばつが悪そうに頭を下げた。
「実はその…」
「おう」
「舌、火傷したんです」
「ハ?」
 なんだ、具合が悪い訳じゃなかったのか。
「そうだったのか。んで、いつ火傷したんだ?」
「朝、ボーっとしてて、お味噌汁で」
 斎藤が当番だったよな。あいつぬるい味噌汁など認めん!みたいな熱々派だったな…。
「舌、出せ」
 原田は身を乗り出して千鶴に近づく。千鶴は目を泳がせたが、原田の無言の圧力に負け、そろりと舌を出す。
「あぁ…、水ぶくれが出来て白くなってんじゃねえか。痛いのに悪かったな」
「……っ!?」
 原田はペロリと千鶴の舌を舐めた。
「怪我は舐めんのが、一番っていうだろ?」
「は、はらださんっっ!」
 千鶴はもう真っ赤だ。
あわあわと狼狽える千鶴に原田は更に端正な顔を近づける。
「お前さ、俺以外にこんなことさせんなよ?」
 コクコクと千鶴は人形のように頷く。
「というよりも、あの、原田さんも駄目ですっ!こ、こんな」
 真っ当な怒りもどこ吹く風とばかりに、原田は畳に縫い付けられている華奢な指に手を重ねる。
「――…は、原田さんて、舌を火傷したら誰にでもこう、その、舐めたりするんですね」
「そんなんさ…千鶴にしかしねぇに決まってんだろ。島原でも云ったが、俺はお前に夢中なんだよ」
 甘い低音に千鶴はビクリと肩をふるわす。
「私が…その、厭と云ったらやめて下さいますか?」
「厭なのか?」
「そういう問題じゃありません!いつも、その、いきなりだと心臓が幾つあっても足りなくなるんですっ」
「…どうしてだ?」
 原田はニヤニヤと人の悪そうな笑みを浮かべて、千鶴の細い肩を抱き寄せ耳元で囁く。困り顔が可愛くてたまらないとばかりに。
「それは――」
 尚も言い募ろうとするが原田に息をつく間も許されず、きつく抱きしめられた。
「もっと…俺のことでいっぱいになってくれたら良いのにな」
 俺みたいに。
「原田さん?」
「そうだな、だったら千鶴から俺に口接けたら良い」
 (どーしてそーなるの!?死んじゃうっって!!)
「出来ませんっ!」
「してくれたら、もう俺からは無理にはしない」
「ホント、ですか?」
 で、でももう触ってもらえないってことかな…。
「ふっ、お前って絶対に間者にゃ向かねぇな」
 原田は千鶴の顎を持ち上げ、ちゅっと唇を重ねた。
「――ぅ…」
「ああ、甘いな」
 言葉なんかなくても愛されているんじゃないかと悪夢よりも切ない夢を今、見ている。
すがりつく千鶴にこれは現だと、激しく唇を貪る。
腰が砕ける。もう躯の中央の芯が熱さで溶けて流れそうだ。
千鶴は原田の鍛え上げられた背に爪を立てた。
「…とっくに、私は原田さんだけでいっぱいなのに」
 体温が徐々に混ざり合う。このまま心も混ざって伝われば良いのにと、千鶴は祈るように澄んだ瞳を閉じた。




 女に傷を残すなんて、とんでもねえけど、何か残れば良い。
 ――お前の中に。
明日もしも俺が先に死んでも、千鶴には覚えていて欲しいと思った。漠然とだが、本当にそう思った。





 

 

                                            《了》

 

 

 

 

2010.11.20

 

敬愛する(一方的に!!)喜一様へ捧ぐ