西方の彼方






 夢でも良いから、もう会うことのない人に言葉を交わし、逢いたいと思う。
老い逝こうとする私に刻はきざまれ続けて、永遠に刻を止めた私の姉は少女のままだ。
 今はただ、自分を呼んでくれた柔らかな声が懐かしい。嗚呼、居るのならば何処に居る。あの淡々と散る百合と冷たい石造りの墓の下なのか。それとも花園が連なる、キリストのいる天国なのだろうか。
 どちらにせよ、私が死んでも会うことは叶わない場所、なのだろうか――。




「おーい、吉羅よ。…お前、転科するって本当か?」
「はい。来学期からです。学院自体を辞めて経済に強い学科のある高校への転校も考えましたが、流石に両親に止められました」
 流暢に語る口振りからは以前の、学内音楽コンクールで見せた音楽への情熱は、微塵も感じられない。
唖然とする金澤へ、吉羅は暗い微笑を落とした。
「音楽は、姉さんを死なせた。まだ姉さんは恋すらしていなかっただろうに…。音楽以外の楽しみも捨てて、身体中がボロボロになるまで練習浸けの毎日で。あんな風にした、音楽が憎い」
 違う、自分も憎い。顔色も悪かったのに気付けなかった。同じように練習ばかりしていた。あんなに姉さんは重い病気だったのに。
「吉羅まで…音楽を止めたら、それでも美夜は哀しむと思う……」
 そうかも、しれません。
「でも、音楽を憎む者が音楽を続けることは出来ません。…金澤先輩、お葬式も来て下さって、本当にありがとうございました」
 生徒代表で弔辞まで読んでくれた。姉さんの伴奏をしてくれていた同じクラスの彼女は泣き過ぎて読めなくて。金澤先輩が読んでくれた。
「いや、なんかさ、もう本当にあいつにしてやれることがろくに無いのが、な。吉羅、辛いだろうが無理はするな」
 肩に置かれた手は温かい。彼の温情はささくれる心を幾らか和らげる。だが、まだ『はい』とは云えないから。一礼して、森の広場へ走った。


 今日の演習でヴァイオリンの授業も終わりだ。だからもう、弾くこともない。そう二度と、だ。なら最後は姉さんのために弓を取る。葬送の曲はモーツァルトのレクイエム ニ短調 K626。
「ふぅ…」
 息を吐いて神経を研ぎ澄ます。
 姉さん、どうか今は安らかに――。


「これは、本当に…吉羅か?」
 気になり追いかけた金澤は、思わず口に手を当てた。
ビリビリと大気を震わすような壮絶なる天音は。鳥さえも一羽として飛び立つことを萎縮させる程の、彼の魂を削って出したような音色。
いつものあの華やかな洗練された音が。聴くものを魅了した圧倒的な存在感と確かな技巧力が変わった。
「――ああ、哭いているのか」
 そう、どの吉羅の言葉よりも確かに、どれ程悲しいのかを語っている。自尊心の高い泣けない彼奴が、酷く痛ましかった。
神様に届くのは切実な祈りと本当に美しい音楽だけなのだと、クリスチャンであった師に教えられたことがある。だから、歌を上手く歌うのは、二度祈ることと一緒なのだと。
 つんざくような悲鳴にも似た、彼の切実過ぎる祈りも。最期だろう演奏も。
「美夜、どうか聴いてあげてくれ。じゃないと、彼奴は何処にも行けないんだ」
 最愛だった、お前を亡くして――。
 金澤は長い鎮魂歌を聴き終えると、一人拍手を送った。一生、忘れられない演奏だろうことは分かっていた。
「金澤先輩…」
「帰ろうか。雨が降る」
「…はい」
 二人は黙って天を見上げた。鉛色の曇天は、泣けない彼に代わって哭こうとしていた。


 

 

「暁彦さん、大丈夫ですか?」
「う…ん……?」
「うなされていました、お水持ってきました、飲みますか?」
「香穂子…」
「きゃっっ!」
 吉羅はテーブルに置いた水を指差す香穂子を、いきなり抱き締めた。
「温かい…」
 生きている。
「あの、暁彦さん、どうかしたんですか?」
 吉羅の手は僅かにだが、震えている。香穂子は心配そうに吉羅を覗きこんだ。
理事長室は暑すぎることも寒すぎることもない完璧な空調だ。しかし、吉羅は酷く寒かった。目の前の彼女だけが温かい。
「寒いのだよ」
「風邪ですか?早く帰られた方が…」
「いや、大丈夫だ。君がいる」
「…へ?」
「――もう、逢えない人の夢を見ていた。私の姉だ」
 香穂子は息を小さく呑んだ。吉羅が亡くなった姉の話をすることはまず無いからだ。
「姉は、何処にいるんだろうか。いつ、逢えるのか。つまらないかもしれないが、姉の倍も生きれば嫌でも考える。もっと長く生きていて欲しかったんだよ」
「はい…」
「とても優しい人だった。一生懸命で、明るくて。ヴァイオリンを何よりも愛していた」
「はい」
 姉は確かに、居た。刻は姉の姿も声も朧気にしようとする。
「…すまない、どうも私は君に甘えてしまったようだ」
「いいえ、暁彦さんが痛いなら私も一緒に痛みに耐えます。だから、嬉しいことも一緒に喜びたいです」
「香穂子…」
「…お姉様が今、どこにいるかはきっと神様しか知らないかもしれませんが、蝶に生まれ変わっているかもしれませんよ?」
 蝶に?
考えたこともないことだった。
 香穂子は、膝枕をしながら眼を閉じる吉羅の髪を丁寧に撫でる。
「蝶は海を渡り西へ西へと飛ぶんだそうです。人は死ぬと西方へ行くと聞いたことがあります。西に何があるかは分かりません、でも本能で飛ぶそうです。だから死んで生まれ変わって西を目指すこともあるんじゃないかなって」
「では、もう姉の生まれ変わりに私は逢っているのかもしれないのか…」
「これから逢うのかもしれませんし、逢っているのかもしれません」
 歌うような声は心地良い。知らず、美しい夜の色をした一つの揚羽蝶が飛ぶ姿が目裏に浮かんだ。
「西へ辿り着くのか」
「私達も、あえるかもしれません」
 ああ、そうだ。姉は西の果てに今もいるのかもしれないのだから。
「…ありがとう」
「いいえ、お姉様に逢いたいのならいつでも私に、お姉様のことを話して下さいね。生きている私達が忘れないのが大切だって思うから――」
「そうだね、香穂子…本当に、そうだ」
 忘れないから。絶対に忘れない、愛していたあなたを。
「また、ヴァイオリンを弾いてくれたまえ」
音楽の妖精に祝福を受けた君。姉も聴いていたら、どんなに喜ぶだろうか。
「はい、暁彦さん」
 しっかりと頷いた気配に吉羅は眼を開けた。
「大好き、暁彦さん」
 笑っている香穂子は、誰よりも綺麗で吉羅はつられて微笑んだ。
「私もだよ、香穂子」
 起き上がると、宝物を納めるかのように腕に香穂子を抱き締める。くすぐったそうに笑う香穂子へ羽のような軽さでキスを贈る。
「これからは姉の話をしよう、聞いてくれるだろうか」
「はい」
 痛みを共にしてくれると言った君に感謝を。愛を、尊敬をこめて。
「あ…」
 吉羅は白い香穂子の手のひらへ口接けた。





 もう、悪夢は見ない。
そんな気がした――。






【了】