Blanc - lilas





 その部屋は、二人の音楽で満ちていた。
穏やかな顔で優美に鍵盤を追う天宮の音色は甘く切ない。隣でヴァイオリンの弓を自在に操る、かなでの音は軽やかだ。
聴衆が居さえすれば、曲の終わりに盛大な拍手を送ったことだろう。雲間から射す光りのような合奏は、暖かな余韻を残して消えた。
「もっと弾いていたいけど、ここら辺で休憩を入れようか」
「うん」
 全国ファイナルが終わり季節が移っても、二人は時間を見付けてはよく音を合わせている。レッスン場所が練習スタジオ
から天宮のマンションへと変わったのは最近だが。
にこりと返す、かなでと天宮は視線を交わらせた。
「ねぇ、君の故郷のことを話してよ」
「えーと、何から話せばいいのかなぁ」
「何でもいい。聞きたいんだ、君がどんな所でどういう風に過ごしたかを」
 過ぎた時間は戻らない。だからもう会えない、会えなかった分を埋めたいんだ。少しずつ、ね。
 かなでも天宮から突拍子もないことを言われるのには慣れているが、咄嗟に応えられない性質のものだけは、やはり
即答するには至らない。
「沢山あるから、長くなるかもしれないけど…――――」
 暫く考え込んでいたが、かなでは一生懸命に話し始める。
「うん」
 君のヴァイオリンの音色のように、やわらかな声が心地好く僕の耳を通って身体の隅々まで行き渡る。
「…――――こんな感じで良かった?」
「ありがとう、知らない君に出逢えたよ」
 満足そうに眼を細める天宮だが対して、かなでは不満そうに唇を尖らせた。
「静君のことも話してよ、私だって聞きたいよ。それに静君って、あんまり自分のことを話さないからミステリアスって
いうか。後で知ってビックリすることが多いし」
「そうかな?」
 振り返れば話しというと音楽のことが大半を占めるし、こうやって彼女に質問ばかり。隠していることもないけど
自分のことを話すとなると面映ゆい。黙ったままでは彼女も納得しそうにないし。
「…僕はね、前も話したけれどアレクセイ先生に育てられたんだ。函館の天音学園にずっと居て、小等部と中等部も
そこで過ごした。春になると庭のライラックの花が満開になる、今でも思い出して夢に見ることがある」
 白壁の洋館を彩る、あの薄紫色。普段は仕舞っている記憶の底から、まざまざと蘇る。
「綺麗だったんだね」
「そうだね。僕はあそこで沢山の人と出会ったよ。冥加も小等部の時に会った一人だ」
「じゃあ、幼馴染み?」
 僕は思わず目が丸くなる。やっぱり君って面白い。
「そんな仲良しじゃないさ。だけど、まぁそういう云い方もあるかもね」
 かなでは過去を語る天宮が珍しいのか興味津々と、ヴァイオリンをケースに仕舞うやピアノ椅子に座る天宮の足元へ、
ぺたんと座った。膝へ、ちいさな頭を寄せる。
仔犬のように頭を擦り寄せる彼女は可愛くて、僕はふわふわの髪を撫でながら話すことにした。
「確かに、こうやって話し始めると記憶の箱が開くような感じだ」
 音楽だけ、音楽しかなかったあの頃。
「ずっとね、心のどこかで僕はあのライラックの美しい邸で人知れず、変わることもなく朽ちてゆくかもしれないんだと思ってた」
 僕は足りなかった。人は誰しも不完全だけれども。競いあった冥加に有って、僕には無かったもの。
 ――激しい心だ。そして恋さえ知らなかったんだ。
 手や脚から伝わる彼女の体温、感触、その全てが胸をいっぱいにする。
「僕はね、君を愛してる、何よりも誰よりも。君に恋をしている」
 かなでは煮えたように真っ赤になった。
天宮は微笑んで、そっとかなでを立たせた。座ったまま見上げ、熱い頬を優しく撫でる。
「昔の君も今も、これから先も愛しているから」
「私、幸せよ」
「…先に言われてしまったな」
 今、僕はとても幸せだ。
音楽しかなかった僕はもういない。君と居る。
「好きだよ、かなでさん」
「うん…大好き」
 君と居ると薄紫じゃなくて真白いライラックが見えるんだ。君も見えているだろうか?
天宮は行儀良く眼をつむった、かなでにキスを贈った。




<了>