薫風輪舞


 無限に広がる宇宙に在って、繁栄を象徴する神鳥の宇宙は偉大なる若き女王の元で更なる発展を遂げようとしていた。
 その主星では女王を頂点として女王補佐官に九人の守護聖が神話さながらに存在していた。通常の時の流れの中を生きない彼らはサクリアという聖力が尽きるその日まで年をほとんど取らない。
斯くして通常の時の流れを生きてゆく者達と一線を画し、肖像画さえ残されることもないために最早伝説に近い。決して卑近な存在足り得ないために永遠にその距離は遠いままのものだった。
 …‥そしてそのはずだったのだ――。




「ねぇ、オスカー、抜け出してきちゃった。少しくらいなら良いわよね」
「陛下…‥」
 紅蓮の髪に鋭い蒼氷の瞳が印象的な、あたかも軍神のように美しい騎士は二の句も継げず、この世界で至高の存在とされる宇宙の女王の我儘にただ空を仰ぎ見た。
たった一人の仕えるべき主ではあるが、たまにこういった突飛な行動に出ることがある。慣れてきたとはいえ、やはり心臓に悪い。
「だって公務ばかりじゃ民が今、本当に何を求めているかなんて判らなくなってしまうわ」
「陛下は候補時代から実践的ではありましたが、供も付けずに視察とは流石に守護聖としては賛同し兼ますね」
「良いの、お供はこれからオスカーに頼むつもりだったんだもん。良いでしょ?」
 ぷぅっと白い頬を膨らませてアンジェリークはオスカーに言い募る。
お忍びのつもりなのか、ピンクの短いワンピースにパンプスといった軽装だ。明るい金髪にそれは良く映えて、未だ幼さが残る翡翠の瞳は期待に満ちてきらきらと輝いている。それは可愛らしい少女そのもので、正装をした威厳に満ちた執務中のそれとはかけ離れている。
今は到底、宇宙を統治しているような女王には見えない。
「…そこまでおっしゃるのなら今日はお忍びのようですし、『陛下』とは呼びませんが、それで宜しければ貴女の炎のオスカーにエスコートすることを許して頂けますか?」
 うやうやしくアンジェリークのちいさな手を取ると、膝を折って掠めるように唇を寄せた。
アンジェリークは頬を紅潮させて首を振った。
平素は執務をこなしているのだから、こんなに間近で逢うのはとても久方振りで。憎たらしいほど端正な容姿は無駄の無い完璧な所作も合間って見惚れるばかりだ。
「行こうか、アンジェリーク」
 ちょっと悔しくなってしまっていたけれども、上機嫌に笑ってくれたから差し伸ばされた手を夢中で取った。
「どこでも君が行きたい所へ行こう、どこが良いだろうか」
「あのね、お買物したいの、それからね、お腹が空いてきたからどこか寄りたいなって」
 楽しそうなアンジェリークにオスカーも眼差しをやわらげる。太陽は高く、一日は始まったばかりだ。
「アンジェリークが好きそうな場所を見つけたんだ。昼食を摂ったら行かないか?」
「どこ?」
「湖なんだが、ボートがある。鳥も来る」
「行きたいわ、素敵ね」
 はしゃぐ彼女に腕が空いている、と声をかけると少しして有難う、とはにかんだ小声が聞こえた。そっと腕が絡んできたから、恋人同士のように腕を組んで街を歩いた。




「あの二人ってお似合いね~、女の子は可愛いし男の人は格好良いし!」
「本当、良いなぁ…」
 さざめかれてアンジェリークは一人気恥ずかしそうに黙る。オスカーは気にもならないらしい。
「見せ付けてやろうぜ」
「もうー、後でどうなっても知らないんだから」
「どうして?俺の隣の席は君だけだって決めているんだぜ」
 真顔で告げられてアンジェリークは狼狽えた。
「――皆に、そう言ってるんでしょ」
「ひどいな、君…‥アンジェリークだけだよ」
 じっと息を詰めて高鳴る煩い心臓を押さえる。
「好きだ」
 どうして、こんなにさらっと言えるのかしら。様になってるから尚更悔しい。それでも本当に嬉しいから私ったら馬鹿みたい。
「浮気したら許さない」
「勿論だ」
「我儘言うわよ」
「慣れてる」
「大切にしてくれなくちゃ嫌」
「誰よりも大切にする」
 早足で歩いても簡単に追い付かれてしまう。観念して振り向いた。
「私も浮気したりしないわ、オスカーが好きよ、絶対に他の誰よりも大切にするわ。だからずっとずっと側に居てね」
「あぁ、居るさ。ずっとだ。離さない」
 温かな体温を感じた、抱き締められているのが心地良い。
「今までも、そして今もこれからも…‥。アンジェリーク、君を愛しているよ」
 泣きたくなる程、優しい告白にアンジェリークは返す言葉が失くなってしまう。だから、精一杯抱き締め返すことで答えた。




「帰って来ませんわね、陛下ったら」
 ロザリアは朝から執務室に詰めていたが、お茶に誘われて水の守護聖の私邸に訪れていた。
「もう、重大事件が無いとはいえ、決済して頂かないといけない書類が山積みになっているんですのよ。帰って来たらキリキリ働いてもらわないとなりませんわね」
 有能でまさに貴婦人という形容詞がピッタリな麗しき女王補佐官は、辛辣な言葉を紡ぎながらリュミエールがいれてくれたハーブティーをゆっくりと口許へ運ぶ。
「ロザリア、余り陛下を怒らないで差し上げて下さいね。ふふっ、陛下がのびのびしていらしていると聖地は平和だと感じますし」
「そうですわね…、たまには女王にも息抜きが必要だわ、でも執務はきちんとこなして頂きます」
 顎を反らしてつんと言い切ったその言い様が、女王候補時代を思い起こさせてリュミエールは苦笑した。
「では、たまには私とも息抜きを致しませんか?」
「そうしたらおあいこだから怒れなくなってしまうわ」
 リュミエールはテラスの窓を開けて爽やかな風を入れた。新緑が夜露を受けて弾けんばかりに眩しい。
「籠もってばかりでは勿体無いお天気のようですよ、ハープを庭で聴きませんか?」
 願っても無い申し出に思わずロザリアは頷いた。
「陛下も貴女も頑張っているのですから、こんな日も有ってよいのではありませんか?少なくとも、私は幸せになりますしね。一人より二人、二人よりは全員が――、皆が幸せなのが一番ですよ」




 ロザリアの叱咤を思い、おそるおそる手土産を持参して執務室に戻ったアンジェリークであったが、意外なものを机の上で発見して我が目を疑った。
『私も陛下を見習って、午後から少し息抜きをしますわ。執務はまた、明日から』
というメモだった。
「い、息抜きじゃないもんっ!視察よー」
 隣にオスカーが居たら速攻で訂正を入れるであろうそれを絶叫した。
「まぁ、皆が幸せなのが一番よね!明日からまた頑張らなくっちゃ」
 えいえいとガッツポーズをして気合いを入れる。謀らずもリュミエールと同じような台詞を言った訳だが、そうとは無論知らない。
「うーん、でも…今日は眠れないかなぁ…‥」
 隈だらけでの執務は控えたい、アンジェリークは羽があるかの足取りで寝室へと向かう。
 けれど、オスカーとの甘やかな時間を思い出すからどうも落ち着いて眠れそうにもない、夜更かししてしまいそうだ。
きっと安眠なんて出来っこない、ベッドへ潜り込みながら幸せな約束を反芻した。






《了》