Tempo di prima

 



 季節外れの花火は水面に吸い込まれながらも淡く揺らめき、屈折した光はいっそ幻想的でさえある。
森の中に在って極彩色の光に遊ぶ少年少女達の間を妖精達が音もなく翔び跳ねる。楽しそうに朧げな光を発しながら。風景の輪郭がそろそろ夕闇に溶けてゆく頃合いらしい、妖精らが放つ燐光が迫る夜の到来を教える。
 少年少女達の中に有って一人だけの成人であり妖精を二度と見ることの叶わない彼は、視えないながらも温かな妖精達の気配に気付いて思わず微笑んだ。以前は一緒に過ごし視えていた妖精達。想いはあの頃へと戻ってゆく。青年がやわらかく懐かしんでいると手を、一人の少女がぐいぐいと引っ張った。
 彼は我に返って自分がこの場の監督を任された責任者であることを瞬時に思い出し慌てた。

「日野さんどうしたの、何かあった?」
 少女は怒ったような泣きだしそうな複雑な表情を浮かべていたものだから、引っ張られた王崎は面食らった。
「花火終わったの?まだ線香花火が残っているみたいだね、日野さんもやろうよ。そうしたら片付けようか」
「王崎先輩、手」
 遠慮がちに、けれど食い下がるまいと必死に少女は王崎の手首を掴む。
「手?」
「あの、指です。さっき着火する時に火傷したんじゃありませんか?熱いって言ってましたから…」
「ありがとう、大丈夫だよ。気を使ってくれたんだね」
 平気だよ、とは言うけれど、うっすら赤く腫れ上がってしまった指は、やはりヒリヒリするだろうし何よりも見た目に痛そうで少女は顔を露骨にしかめた。
「王崎先輩って、人には優しいのに自分にはずさんっていうかぞんざいっていうか」
「え?」
 彼のヴァイオリニストにしては骨太な、でも整ったその指が少女は大好きで。
「まだ保健室空いてますから行きませんか?」
「たいしたことないし、良いよ」
 そう返すだろうなと予想したそのままの答えに、思わず溜息を吐いた。
「こんなの、私が言うことじゃありませんけれど先輩はヴァイオリンを弾いてらっしゃるんです。指は大切にして下さい」
 やたらと腹が立ってしまって、もっともっと指だけじゃなくて自分も大切にしてよ、と言いたくなった。
「痛いのを我慢して良いことなんて何もないんですよ?こういうのは初期の適切な処置が大切だって言いますし」
「う、うん」
「じゃあ、そうと決まれば善は急げです」
 気迫に押されて頷いた王崎に少女はにっこりと頷き返した。 掴んでいた手首を離し所在無げにたたずんでいる土浦に声を投げた。
「土浦君、王崎先輩に保健室まで付き添うから悪いんだけど後のことお願いしちゃってもいいかな」
「ん?怪我か?」
「違うわ、着火の時に火傷したみたいなの。いくらOBでも一人でウロウロしてたら何言われるか分からないじゃない」
「了解、後始末なら任せておけ」
「うん、頼んだ」
 大股で土浦に寄ると、ぽんぽんと数回平手でちいさく胸を叩く。宜しくね、と目線で告げるそれは凶悪なまでに可憐で。土浦は似合わない、更に言えば柄でもない手持ち花火大会の成り行き強制参加に落ち着かなかった心持ちもどこへやら、頬がゆるまないようにしなければならなくなった。
 そして少女が身をひるがえすのを確認すると、自分達を気に入らなさそうに見ている柚木へと嫌味たっぷりな視線を送った。ここぞとばかりに信頼されているのはあくまでもこっちの方だ、という含みをもって。
 牽制を無言でかわし、柚木は背中を向け続ける少女へと進んだ。
「日野さん」
「ハイ、何でしょ…っ!」
 ダンスの相手をするかのような極自然な所作で少女の手首を軽く掴み反転させる。対面させると大きな目を白黒させている少女に柚木は端正な顔をゆっくりと近付けた。
「ねぇ、頼りなく見えてもこれでも僕は最上級生だし少しは頼ってもらえると‥嬉しいんだけど」
「あ、あの…」
「ごめんね、かえって困らせてしまったかな。でもね、僕だって何か日野さんの役に立ちたくてね」
 真っ赤になるのが可愛くて、気を随分良くした柚木はとどめとばかりに女を骨抜きにさせる、とびきりの笑顔に極上の甘やかな声を繰り出す。
「あの、柚木先輩はとっても頼りになります!!ただ…その、申し訳なくて‥」
 至近距離の慣れない接触は少女の心臓へ容易く過負荷をかける、しかし柚木は薔薇色の頬に手を添えて、いとも簡単に口答えさえ封じてしまう。
「頼ってくれるかな」
 少女は忙しく首を上下に振った。
「じゃ、行っておいで」
 ぽん、と肩を両手で叩くと、歯噛みする土浦へ上品に目蓋を閉じて貫禄勝ちを宣言する。

 渦中の真っ只中に在って少女は静まれ~、静まれ私の心臓~、とうつむいていたため派手に散らされる二人の火花に気付く由もなく。解放されて、よれよれに王崎の傍へとひた走った。
「皆、保健室に行くから先に帰ってて。こっちはどれ位の時間がかかるか分からないし。片付けをしないままでごめんなさい」

「えー!!日野ちゃん、帰りは送ろうか?だって何時になるか分からないなんて、それじゃ危ないよ」
 言い出したくても誰も言い出せない願望を火原はあっさり切り出した。
「確かに、危ないな」
 月森も形の良い眉をひそめる。
「私なら大丈夫、それより冬海ちゃんと天羽さんを宜しくね。今って学内でも油断大敵だし!だから男子が居た方が安心かなって。頼んだからね、さよなら」
 土浦をちらりと見ながらの弁に土浦は複雑な気分にならざるお得なかった。一番ガタイが良いという明快かつ私情の介在する余地すらない理由から頼られたなら結構悲しい。しかし安心感を抜群に持っているのだと考えれば、マイナスはプラスに転ずる。
これは柚木も同様だったらしい。表情にこそ出さないものの、土浦を好意から頼ったのではないならプラスだが、非力と解釈されているのならマイナスだ。
 若干ブルーになってしまった二人を差し置いて、元凶は天然で真意の読み難い青年と消えてしまった。ぶつけ所も無くて二人は無言で後片付けをし始めた。


「くしゅっ…‥」
 冬海が寒そうに自分の肩を抱いた。春先とはいえ、夜は冷え込む。
「おいおい、風邪か?」
「‥…あ、あの、――ご、ごめんなさい」
 心配していてくれようにも土浦は強面だ、上背もあれば不機嫌なオーラを出すと尚一層迫力が増す。ただでさえ男性全般に恐怖を感ずる冬海にとって彼の親切心は対処に困る代物でしかない。
 無意識に膝がふるえ、後退さりするのは失礼だという一念だけでは、そんなに持ちそうにない。泣きたくなって目頭が熱くなっている冬海に、土浦は上着を脱いで頭から被せた。
「寒いなら、着てろ。目元も赤いし悪化したら大変だ」
 突如、視界が真っ暗になった冬海の混乱は最高潮に達し緊張の糸が切れて立っていられず、その場でへたり込んでしまった。後退さりはしまいと踏張っただけかつてなく健闘したといえるが、風邪という誤解は深まる一方だ。
「冬海さん、大丈夫か?」
「ちょっと~、上着は肩にかけてあげるものなのよ?どこの世界に犯罪人みたく女の子に上着を頭から被せる男なんているのよ、初めて見たわ」
 ぐるぐると聞こえる外野の会話は右から左に流れてゆく。
「立てるか?」
 月森の事務的な口調が頭上から降る。立てますと答えたかったが、しばらく立てそうにない。
「いいえ‥」
「そうか」
 壊れ物でも扱うかのような優しい仕草で月森は上着を肩に掛け直してやる。「無理はしない方がいい」
 うつむいたままなのは失礼に過ぎる、お礼を言わなければと冬海が顔を上げると秀麗な月森の顔が間近にあった。
「君の、鞄と上着は俺が取りに行こう。だから動くな」
「月森先輩…、本当に‥…すみません――」
 消えいりそうな謝罪に天羽が志水に水を向けた。
「あのさ、どうせなら志水君が行けば?棟一緒じゃない」
「え…、でも、それだと‥…天羽先輩を誰が守るんですか?」
「は?」
「日野先輩は、僕達に天羽先輩と冬海さんのことを頼んでいきました。柚木先輩は車を手配しに行きましたし、火原先輩は金澤先生の所へライターを返しに行ったみたいです」
「土浦君がいるから大丈夫でしょ」
「土浦先輩は動けない冬海さんに付き添ってあげて、僕は天羽先輩を送ります。だって、月森先輩は天羽先輩の家と逆方向だから」
 理路整然としたそれには反対意見も出ない。
「だから、僕が荷物取りに行くよりはやっぱり月森先輩にお願いした方が効率良い気がするんです」
「そっか、そこまで考えてなかったなぁ」
 暢気な天羽に志水はいいえ、と首を振った。
「冬海なら俺がみてるから志水、その跳ねっ返りを送ってやれ」
「そうだな、それがいい。それにしても土浦、余り不用意に冬海さんを怖がらせるな、君は無駄に厳(いかめ)しいな」
「うるせぇ、とっとと行きやがれ!」
「ちょっと~、跳ねっ返りって誰のこと!?月森君もそこは突っ込んでくれなきゃ酷いじゃないっ」
 喧嘩している場合ではないのは流石にわきまえているので睨み合いもそこそこに散会した。




 かくして土浦と冬海だけが取り残された。
 冬海は、男臭さの無い志水はそれ程苦手ではない。同学年の気安さもある。柚木も時折、立派過ぎて気後れするが会話は柚木の忍耐によって成立してはいる。だから、なるべくなら二人きりになるのなら志水か柚木が良かったのだが、そうも言ってはいられない。
 会話も思いつかない、でも具合が悪いと誤解されているのは、そのままにしようと思った。それなら喋らなくても彼は不愉快にならないだろう。

 ――そうは思っても、意識してしまう。

 隣におそらく腕組みをして立っている彼の距離も、かけられた上着から嗅覚を刺激する男性特有の体臭も、残っている体温のそれらが軽い眩暈さえ誘発して苦しい。
「なぁ、冬海」
 考えていたのは彼のことばかりだったから、名前を呼ばれて大袈裟に身体が反応した。

「そんなビクビクすんなよ、何も取って喰おうなんざしてないんだし。確かにお前には俺みたいなのは苦手だろうよ、でも俺には良いが全部が全部ヤな奴ばかりじゃない。お前に悪意の無い奴からしたら、そういう態度は何げにそいつを傷つけるぜ?無意識か?それともわざとやってんのか?」
「えっ…‥」
 挑むような口調に顔を上げると、にやりと不遜な表情をした土浦が居た。
「ふうん、やっと顔を上げたな」
 困り切った冬海の儚げな風情は、大抵の人間の保護欲を掻き立てるものだが土浦は静かに見下ろすだけだ。
「少しずつでいいから治せ。お前も生き難いし、俺も会う度、恐がられるのは良い気はしない」
「ご、‥…ごめんなさい。先輩、ごめんなさい」
「あのさ、謝ってほしい訳じゃないんだ。ただ、いちいちビクビクすんなってお願いしてるだけだろ」
 具体的にどうしたら克服出来るというのだろうか。
 泣きそうな冬海に土浦は上着を頭からかけ直した。
「これで、怖い俺は見えないだろ?ふるえる位、怖いんじゃ仕方ないか。さっきのは取り消す、お前はお前の好きなようにしろ」
 拍子抜けする程、あっさり撤回した土浦はもう何も話かける気はないらしい。それが失望に拠るものだと気付いて、よろけながらも冬海は立ち上がった、上着が芝生に落ちるのも構わず土浦の腕にすがる。
「わ、私、すごく失礼なことしました。土浦先輩に嫌な思いさせて、すみません」
「‥…――」
「あの、すぐには無理かもしれないけど頑張ります。だから…‥」
「そうか」
 ふと、土浦は眼差しをやわらげた。それだけで驚くほどに印象が違う。冬海は恐ろしさも忘れ、深い色のその瞳に吸い込まれた。
だからか、緊張が一瞬どこかへ失せて、ずっと消えなかったことが口をついて思わず出た。
「‥…土浦先輩のピアノの音を聴いた時、とても感動したんです」
 あの、魂に迫るような瞳のように深い音――。自分のものとはかけ離れた生きた音。
怖いだけではない人だと気付いていたのに、それでも近づくと息苦しくて逃げたくなってしまっていた――。
「怖がってばかりだったけど…、でも‥先輩が嫌だからとかじゃありません、ただ、‥…その、まだ慣れなくて」
「買い被ってくれて、ありがとよ。慣れてないならコンクール参加者の大半は男子なんだし、そこから慣らせばやり易いんじゃないか?いきなりは無理でも志水や柚木先輩ならとっつき難くないだろ」「はい、そうします」
 悲壮な冬海がおかしくて、土浦は無遠慮に笑った。
「なに死にそうな顔してんだよ!面白いなお前ってさ、あははははっ」
 何故爆笑されているのかも分からずにいると、寒いだろ、と上着を拾って掛け直された。今度は本当に眩暈がした。ふらついて崩おれるのを土浦が支える。
「あぁ、月森と先輩達は戻ってきたみたいだな。今日はちゃんと休めよ」
「は、はい」
「随分軽いな、飯食ってるのか?」
「えっ、は、はい。帰ったら沢山食べますっ」
「ふっ…、はははっ、そんなにそこは頑張る所じゃないだろ。まぁ、うん、そうしたらいいさ」
 屈託なく笑う彼が心底愉快そうで、つられて冬海も笑ってしまった。
「ふふ、そうですね、おかしいですね」
 声を立てて笑う冬海に土浦は優しく頭を撫でた。
「やっぱり冬海は笑ってた方が良いぜ?可愛い」
 さらりとした何気ない賛辞は、幼い子供に対するようなものでしかなくとも否が応にも冬海の胸を甘いもので満たしていってしまう。
「あ、あのっ、上着お返しします!ありがとうございました、その、車で帰りますし」
「歩けるか?」
 生来の面倒見の良さはこんな時には罪悪ですらある。
「と、とっても歩けます」
「気をつけて帰れよ。また、明日な」
 心地よい低音のささやきに冬海は胸が高鳴り顔を赤らめた。
「ありがとう、ございました」
 ぺこりと礼儀正しくお辞儀する冬海に片手を軽く上げて返す。

 規則正しい足音に振り向くと月森が居た。
「冬海さん、荷物はこれで良いだろうか。顔が赤いようだが…、大丈夫か?」
「大丈夫です、あの、月森先輩ありがとうこざいます」
「いや、当然のことをしただけだから」
 いつもの怯えた態度とは違う応対に月森は少し驚き、そして破顔した。
「行こう、もう車は来ている」
 夕闇は完全な夜になっていた。




 天羽と志水はというと、これも何かの縁よねとインタビュー責めにする天羽に対し志水のいまいち要領の得ない、もしくは完璧な模範解答の応答が飽きずに続けられていた。
「志水君てさ、音楽以外の興味って何かある?」
「特に…、あ、読書かな。音楽理論とか自伝とかの」
「そっか、本当に音楽好きなんだね」
「はい、好きです」
 話しかければ返す。テンポは早くないけれども気になるほどではない。
 天羽は何とはなしに沈黙が勿体なくて話題を探していると志水が話を振った。
「先輩、荷物持ちましょうか?」


 カメラの器材一式を詰め込んだ鞄に加え、教材を入れた鞄の両方を持つとなると、かなり重いだろう。
「いいよ、自分の荷物は自分で持たなきゃ所有してるなんて言えないから。志水君だってよっぽど具合が悪くなければ自分のチェロを誰かに持ってもらいたいと思わないんじゃないかなぁ。まぁ、そんな感じよ」
「あぁ、…そうですね」
「でも意外!女の子の荷物持ってあげるなんて優しいじゃん、私は力持ちだから別だけどさ、大概の女の子って非力だから大変そうにしてたら手伝ってあげなよ」
「はい」
 素直に頷く志水に天羽は嬉しそうに眼を細める。
「ここでいいよ、あそこが家だし。練習時間削っちゃって、ごめんね」
「いいえ、じゃあ」
 志水は天羽が家に入るのを見届けると反対側を歩き出した、月森も逆方向だが自分もそうなのだ。ただ、彼女と歩きたくて申し出たのだけれど。
「音楽以外の興味の一番は――天羽先輩、なんだけどな…」
 言えず仕舞いになってしまったけれど。志水はチェロを大事そうに抱え直すと、いつものペースで歩き出した。




「染みますか?」
「大丈夫だよ」
 保健医がタッチの差で帰宅したため日野は王崎に保健室で応急処置をしていた。鍵を金澤から借りたのだから後は返すだけだ。
「金澤先生に鍵を返してきますから、先輩はお先に帰っていて下さい。片付けと戸締まりは私がやっておきますね」
「いや、そんなの俺がやるよ」
「巡回中の守衛さんに、教師でも制服着た生徒でもない先輩が保健室も閉まったはずの時間帯に見つかったら大変ですから私がやりますって」
 それはそうだ。
「それに今日、そんなに忙しくありませんし御礼をしたかったから、これくらいさせて下さい」
「…御礼?何もしてないよ」
 考え込み始めた王崎に少女はふわりと笑った。
「ヴァイオリンを一緒に弾いてくれたじゃないですか」
「そんなの俺も楽しかったんだ、とんでもないよ」
「――嬉しかった、だから御礼がしたい。それではいけませんか?」
 どこまでも透明なまま澄んだ瞳で返す彼女に、王崎は妖精達がどうして彼女を選んだのか理由の一端が僅かながらだけれど理解出来た気がした。 素直な精神は高慢さを退ける、聡明な人だと思った。そして人を愛することを知っているんだとも。
 それを音色に出来るのだから最早奇跡なのかもしれない、自分をさらけだすのには勇気が要る、だけど迷おうとも挫けないのだから何時の間にか人は彼女をこそ愛してしまうのだろう。
「ありがとう」
「え?」
「俺でよければ何時でも弾くから」

 この人が、こうやって自分の音を望んでくれることの何と幸いなことか。願わくば、ずっとそれが続けばいいのに――。

「待っていたら迷惑かな、君を送りたいんだ」
「でもお忙しいんじゃ…」
「日野さんは人を心配ばかりしてくれるのに、自分にはそうじゃないんだね。ダメだよ、君は女の子なんだから夜道は危ないし、何かあってからじゃ遅い。こういう時は頼ってほしいな」
 困ったような王崎に少女は珍しく詰まった。
「え、えと…‥。でも」
 ごもごもと反駮を試みようとするが上手くゆかない。
「そうだ、時間あるんだよね、ケーキおごるよ」
「はうっ…!」
「送らせてくれるなら、紅茶もつけるんだけどな」
 例に洩れず甘党な少女は、この誘惑に遠慮の二文字が吹き飛んだ。
「本っ当にいいんですか?」
「うん、勿論。それから前のコンクールでよければ、どんな感じだったかとかいくらでも訊いてね」
 少女の瞳はきらきらと輝きだし、いささか現金な輝きだとしても王崎も嬉しくなってしまった。
「行きます!這ってでも!!」
「じゃ、一緒に片付けようよ。二人でやれば早いから」
「はいっ!!」
 鼻歌さえ歌いだした少女に苦笑しながら、王崎はどこのお店へ案内すべきか考え始めた。




「今、思えば公園でのアイスにポップコーンといい、餌付けされたみたいなもんよねぇ」
「ひどいな、餌付けだなんて」
「でも、餌付けだもん」
 少女は青年の膝で甘えている。
今日は彼の誕生日だからと贈り物をし、手料理を頑張った。彼にしても今日だけはとバイトのシフトも散々冷やかされながら外してもらったのだ。その努力の甲斐有って、久し振りに長く過ごせるのだからお互いに機嫌はこの上なく良い。
 少女の整理のゆき届いた部屋で王崎はベッドに浅く腰掛け、膝元で猫のように頭を預けている少女だけを見つめていた。
「来年もこうしていられたら素敵だなぁ」
「うん、そうだね。俺も君といたいんだ」
 少女は嬉しそうに頭を膝頭に擦り寄せる。
「香穂ちゃん、おいで」
「信武君って寂しがり屋だよね」


 両手を広げる王崎の胸元めがけて少女は飛び込む。
「捕まえた」
「捕まっちゃった」
 彼だけが呼ぶ自分の名前。嬉しいからぎゅうぎゅう抱きついた。
「香穂ちゃんだって寂しがりの癖に」
「だからそうでも信武君ほどじゃないって」
 譲らない少女に王崎はハイハイ、と降参した。
「今度は香穂ちゃんのお誕生日だね、何がほしい?」
「何もいらないから一日一緒とかが良い」
 小憎らしいかと思えば心臓を鷲掴みにするほど可愛らしくて。
「あのね、大好き」
 心からこの美しくて優しい人に出会わせてくれた全てに感謝した。
 
 とても幸せだ。


「香穂ちゃん、何度でも言うよ、大好きだよ」




 来年も、再来年も一番大切で大好きな君と過ごせますように――。
 そう願わずにはいられない。王崎は力いっぱい彼女を抱き締めた。






《了》