純情闘争


 


 ――らしくない。
何が、と云えば最近の俺自身がだ。やたら張り切っているじゃないか。
『やる気がない』人間の代名詞もいい所の俺が、帰宅しても咎められない時間帯に手には一杯の資料を抱えて奔走しているのだから、張り切っているのを通り越して滑稽だろう。たかたが学内音楽コンクールの担当に回されたからってさ。コンクールは自分が参加したものからカウントしたら結構な回数に立ち合っている。今更初めてじゃあるまいに、どうも今回は落ち着かない。ある意味、自分が出場した時よりもだ。
 煩雑な仕事なんて関わりたくもなかった。今まで通りに、ただ刻が過ぎゆけばそれでいい。それなりに人生を楽しんで、出来る限り仕事は手を抜いて。

 そうやってきたし、それでいい。

「おっかしいよなぁ、うんうん」
「何がですか?」
「おわあぁぁっ!ひ、日野!?びっくりさせんなよ。おまえさん忍者か?」
「ふふ、変な金澤先生。さっきから呼んでるのに。…どうかしたんですか?」
 香穂子は放課後の練習も済んで、帰宅しようと正門へ向かっていた。帰宅時間を若干超過していたから急いでも居た。
18時の下校時刻になると自動的に正門から全ての出入口が閉門する。過ぎているのに無理矢理突破しようものなら守衛の警備員に見つかってしまうかもしれない。
帰宅部員のペナルティは反省文、部活動をしている生徒は更に所属する部の三日間の活動停止、とかなり厳しい。しかも名前が各学年棟の掲示板に張り出されるのだから堪らない。勿論、内申にも響く。
のみならず、コンクール参加者という御身分の有名人が下校時刻を破ったとなれば報道部のネタにされるのは間違いなしだ。ただでさえ普通科からの参加で肩身の狭い思いをしている少女にとってそれは死活問題とも言えた。
 困り果てていた香穂子は人の気配に極端に怯えていた。このまま校内で朝を迎えるのも現実的ではないが一人で解決するには相当ハードルが高い。もし土浦を発見していたのならば即、助けを求めていたことだろう。しっかりした土浦であれば抜け道を知っていそうだからだ。しかし、前方から迫り来る気配はどうあっても土浦のそれではない。観念して身構えると、その大きな影は金澤だった。
 これが生活指導の教諭だったら迷わず逃げている。だが、金澤なら話は別だ、コンクールの担当教諭でもあるし怒ったりはしないと思えた。
安心からか一気に力が抜ける。見れば手荷物をいっぱい抱えていた。 さすがにその儘にもしておけなくて声をかけたものの、応答は得られなかった。ぼんやりしていることは決して少なくはなかったが、呼び掛けに気付かぬほど考え込むことは滅多にない。綱渡りする様に時折不安定に資料が揺れて酷く危なっかしい。向かっている方向には階段もみえる。
 香穂子は未だ目を白黒させている金澤をたしなめた。
「先生、また面倒臭がって小分けにして運ばなかったんでしょう。いつか怪我しちゃいますよ?もう、誰かに手伝ってもらうかしないとダメですって。いつもなら誰かに手伝わせるのに大変な時に頼まないんだから」
「おまえさん…、俺のおかんか?」
 子供を叱るような香穂子のしかめっ面と口調に金澤は嘆息を隠せない。ぶちぶちと、俺だってそうしたかったけれど気が付いたら誰も周りに居ない時間になっていたんだよ、大体こんな時間まで生徒は使えんだろ、と香穂子が下校時刻を過ぎていることはいささかも気にはならないらしい。
「こんなに大きな子供を持った覚えはありませんけど?ぶつぶつ言ってないで半分貸して下さい、どこまで運ぶんですか?」
「おぉー、手伝ってくれるのか!日野様神様仏様!!有難うー。図書室までなんだ、助かるよ」
 金澤の軽口に香穂子は黙って愛らしく頬笑んだ。まるで幼子を慈しむかのようなやわらかなそれに金澤は、ここが校内であることを一瞬忘れた。
「行きましょう」
「あ、うん」
 軽口を叩く気も失せて少女の軽やかな足取りを追う。かわす言葉もなくて無言のまま図書室へ着いた。しかし、不思議と居心地の悪さは無い。
「よし、終わりだ。セレクション前なのにすまなかったな」
「いいえ」
「一人じゃ帰れないか…、付き合わせちまったし送るよ。流石にこの時間に女子を放り出すのもよくないしなぁ。すまんが準備室まで付き合ってもらえないか。荷物置きっ放しなんだよ」
「いいんですか!?嬉しいな、ちょっと疲れていたから助かります」
「ほんじゃ、コーヒーくらい煎れてやりますか」「インスタント?」
「嫌なら自販機を使うんだな」
 香穂子は勢い良く頭を振る。力の入ったそれに金澤は笑う。
「あー、雨。先生、降ってきましたね」
 すっかり暗くなった空は大粒の雨で大地を瞬く間に濡らしてゆく。窓を叩く強さは徐々に激しさを増している。気温も下がってきたようだ。二人は足早に準備室へと消えた。




 春先の天候は寒暖の開きが大きい、着いた室内はすっかり冷えていた。 金澤は慣れた手つきでコーヒーを煎れる。紙コップを棚から取り出して熱い液体をゆっくりと注いだ。
「火傷しないようにな」
「あ、はい。先生ありがとうございます」
「今回はさ、俺が居たから帰れるが気をつけなさい。他の先生じゃ罰則は免れんから。おまえさんが普通科からの参加ってことで人一倍努力しているのは判るが約束ごとは守ったほうがいい」
「はい、すみません」
「…何かあったのか?」
「え――」
「何も無いなら良いんだ。だけどおまえさんの手に余るようなことがあるなら力になるから」
「――…‥」
「何時でも云ってくれ。それと、無理はそんなにしなさんな。俺と違ってまだ若いんだし時間はある」
 泣きそうな日野に問い詰めるのは危険な気がして、ろくなアドバイスも出来やしない。
「そう‥、ですね」
「疲れているって言ったな、体調はどうだ?」
 本当は体調よりも精神状態の具合の方が聞きたい。
「私ね、すごく頑丈に出来てるから平気なんですよ。ちょっと休めば大丈夫です。金澤先生こそ、とても忙しいんですよね、風邪には気をつけて下さいね」
「おまえさんの方が問題だろ。俺は大丈夫だって、年寄り扱いしないでくれって」
 つい、邪険な物言いになるのは照れ隠しに他ならない。心配すべき生徒に心配されることなどないのだから。他意の無い少女の気持ちは温かくて、簡単に疲れを吹き飛ばしてくれる。

 時折、日野は自分の欲しいと気が付かなかったものをぽんとくれる。それは何時もさり気なくて、貰ってから気がつくんだ。それで決まって俺は馬鹿みたいに嬉しかったりして、日野はやさしく笑っていてくれて。
 狼狽えるじゃないか、何も返せやしないのに優しくされたら。
 金澤は無意識にポケットに手を突っ込んだ。
「もう!先生ったらお行儀悪いですよ?転んじゃったら手を着けないからポケットに手を入れちゃうのは大怪我のもとですって」
「ホント…、おかんか?おまえさんて」
「だからこんなに大きな子供を持った覚えはありませんって」
 ちっともポケットから手を出す気配のない金澤に業を煮やして香穂子は弛緩した腕を掴み、手を出させた。
「手持ちぶさなら腕を組みます?それとも手を繋ぎますか?」
 冗談に過ぎない提案に金澤は危うく飲みかけのコーヒーを全部吹き出しそうになった。
「きゃあぁっ!!せ、先生どうしたんですか!?」
 吹き出すのは根性でどうにか抑えたが、むせてしまうのは止むを得まい。

 それは盛大にむせた。香穂子は驚き、次に背中を長い間さすった。
 ようやくしてから、おさまったもののしばらく声は出なかった。
「――悪い、ちょっと気管に入った」
 例え不注意者の烙印を押されようとも、女子生徒に揶揄われてむせたなど言える訳がない。
教師としての面子も丸潰れだが、いい年をした男としての衿恃がその間抜け振りを許しはしない。
「もう、慌てて飲むからですよ…。ふふ、今度はむせないようにゆっくり飲んで下さいね。新しいのは私がいれますから座っていて下さい」
 突っ込まないでくれたことに感謝しながら、テキパキ動く姿をぼんやりと眺めた。
くるくる動く様子はワルツを踊っているようだ、つい目で追ってしまう。
「どうぞ、先生」
「ありがと」
 いれてくれたコーヒーは美味しかった。
「上手いんだな、意外」
「コーヒーくらいはいれられますよ。お料理は絶対に先生に負けちゃうけど」
「おまえさんならすぐ上達するんじゃないか、不慣れなヴァイオリンもこんな短期間で弾きこなしてるんだし」
「そうですか?先生がそう言うと出来そうな気持ちになります。私って単純ですね」
「誉められて嬉しく無いヤツなんてそう居ないだろ。日野はすぐ上手くなるさ、筋が良い」
 金澤は今、自分がどんな表情をしているのかを知らない。立ち上昇る湯気がゆらめいて香穂子が赤面したのには気が付かなかった。
 心地良いテノールは軽い残響を伴いながら強い衝撃を伴って少女の耳元へと届いたのだ。見たことの無い甘い笑みは少女と同世代の少年達には無い色気がある。艶めいた視線にぼうっとして、いつまでも見ていたいと願ったけれど、やっぱり恥ずかしくなって俯いた。
「どうした?やけにおとなしいな」
「そんなことないです!元気いっぱいですって、えぇと、先生はピアノを弾けますか?」
 フェロモンにまともに当てられ、その手の免疫をほとんど持たない香穂子は平常心を取り戻すのに必死だ。
 紅くならないようにと一生懸命に格闘している様子に全く気付きもしない金澤は、暢気に頷いた。
「そりゃあ、弾けるよ少しなら」
「先生、ピアノを弾いてくれませんか?」
「下手だぞ」
「なんでも良いんです、聴けたら嬉しいの」
 こうまで言われては面倒臭いという理由では断れない。適当な反論も結局思いつかず、仕方なく備え付けのアプライト・ピアノの前へと座る。その隣に少女もおとなしく座った。
「ひねりもないがな、雨だから…」
 ショパン作曲の『雨』が鍵盤からゆるゆると流れ出した。香穂子は静かに聴き入る。演奏が終わると拍手が鳴っていた。
「綺麗、すごーい!私、先生の音好きですっ」
「そうか、ありがとさん」
「先生の音が気になっていたの、どんな音色かしらって。土浦君も手が大きいけれど、先生の指は土浦君より細いみたいだから違うかなって。私の手も、もうちょっと大きかったら音質も違うのかな」「音質は手の形状にも確かによるがなぁ、それだけじゃないぜ。それに大きいっていうが男なんだからこんなもんだろ」
「あ…、そうですよね。女じゃ駄目ですよね」
 どことなく落ち込んでいる。落ち込ませたらしい。
「良いなぁ、先生みたいにがっしりしていて男だたらどんなに――」
 ぽつりと吐いたそれは余りに痛々しくて金澤は目を見張る。潤んだ瞳が溶けそうに美しくて、目を逸らせない。泣いてしまいそうだ、泣いてなんか欲しくないのに。
 それなのに泣くなとは言えなくて、ふるえる手に自分のそれを重ねた。
「いいと思うがな。おまえさんにはおまえさんだけの良さってもんがあるだろ」
 白過ぎる指先は重ねるとまるで氷のようだ。
「俺の手なんてごつごつしていて取り柄もない」
「違うわ…」
「ん?」
 異論を唱える少女は目を細めて指先をじっと見詰める。
「私の手は、いつも冷たいの。本当に金澤先生の手は温かいから違うなって」
「…手が温かいヤツは心が冷たいって言うだろ。だからおまえさんの手が冷たいんなら心の方が温かいんじゃないか?そりゃ俺とおまえさんとじゃ大きさも形も違うが、同じ人間なんていない。それと一緒でさ、異なることそれ自体が悪いってもんでもないだろう。俺からしたら日野の手は可愛いって思うし」
 慣れないフォローは、為した本人を動揺させるには充分だった。
 こんなに触れるのは不自然じゃないか、教師が生徒に――。
「うわっ!失言、それと手、触って悪かった!!寒そうだったからつい。セクハラしてごめん!」
 まくしたてる金澤に香穂子は力なく首を横にする。
「ごめんなさい…」
「日野が謝ることじゃないんだ、たださ、元気をだしてくれよ頼むから。俺はおまえさんの音色は元気があって華やかで良いと思ってる。それにヴァイオリンは一番声に近い楽器だとも思うよ、メンタルなもんが反映されるから特に。だから――」
「私も先生の音が好き」
 好き、というのは勿論ピアノだと分かっていても勝手に心搏数は跳ね上がる。言葉を失った金澤に香穂子は追い打ちをかけた。
「ピアノも好きなの。でも歌が一番良いなって。あの、ごめんなさい、私先生の歌を聴いてからずっと頭から離れなくて」
「は!?何時だ?」
「本当にごめんなさい、わざとじゃないんです。先生が歌を聴かれるのがものすごく嫌だって知ってるけど昨日の昼休み、屋上にいたら聴こえてきて」
 とんでもない失態だ。誰もいないと思っていたのに!



「歌って…って、お願いしたら困りますか?」
 おずおずとした日野の頼みは久しく聞かなかった自分を希求するだけのものだ。義理から来るリクエストでも教えを乞うそれでもなく、ただひたすらに俺を望むもの。
「…断る。困るもなにも大体、俺の歌なんて何で聴きたい」
「聴きたいの、‥先生の声をもっと」
 意識されず再び重ねられる手が熱い。謳ってしまったらどうなるのだろうか。
「失言もそうだが、失態ばかりだな」
 手を離す。

 この熱は危ない。

「歌って…、ずっと聴けたら――」
 さえずるような調べは甘過ぎて。
 雨はまだやまない。隔絶された世界。いっそ永遠に止まなければ良い。




 金澤は今、他の誰よりも自分の歌を香穂子にだけ聴いて欲しいと、そう強く願った。
その瞬間に、ようやく嵐のようなこの苦々しくも荒らぶる衝動を理解出来たのだ。




 あぁ、これは恋なのだと――。







《了》