無言謳

 


 手狭な音楽準備室に香穂子は居た。午後の始業ベルが鳴らされるまで、もう幾らもない。しかし気にしている余裕など無かった。また、呼び出した相手も時間の経過を失念している。
「そろそろ決めて欲しいんだがな」
「金澤先生…、もう少し待って貰えませんか?」
「充分、待ってやったつもりだが?」
「ごめんなさい…。でも未だ決められなくて」
 香穂子は、よれた白衣をまとった教師の前で儚げに項垂れる。
「二者択一だ」
 厳しい声に尚のこと、少女は身を縮こませるしかなかった。
「日野、俺で良ければ幾ら使ってもいいんだ。おまえさんは変なところで遠慮ばかりするなぁ」
「だって…」
 香穂子は続けるべき言葉を言い出せないばかりか、ただ弱々しく涙を落としてゆく。ぬるい気温の室内で、それでも床は冷ややかだ。落散る透明な雫はちいさな水溜まりを作る。
「だって、なんだ?」
「せ、先生は」
 どれだけ相談したかったか分からない。それが出来ないから苦しんでいる。
「居なくなるんでしょう?学校を辞めて居なくなるって――」
 酷い、と言いそうになって唇を強く噛む。血が滲むほどに。
涙で歪む先生は怒った様な顔をしていた。



 それは本当に偶然だった、学内音楽コンクールも終わり進路相談で校長室へ足を向けたあの日。半開きになった扉から先生と校長先生が何かを話しているのが見えた。先生は今まで見たことのない真剣な顔をしていて、校長先生は逆にすごく嬉しそうだった。
「夏にはイタリアへ行こうと思います」
「そうか、よく決心してくれたね。また君の歌が…、あの美しいテノールが劇場で聴ける日が来るのか。待ち侘びていた甲斐があったというものだよ。良かった、本当に良かった。君が決心してくれて――」
 私は頭を重たい鈍器か何かで殴られたみたいな衝撃を受けた。
 イタリア…、イタリアへ行くの!?

 聞いてなかった、ただの一言も。訳が分からなくても気持ちは正直で、酷い、と先生に怒鳴りたくなった。
私の気持ちを知っているのに、どうして――と。
 先生が好きだった、誰よりも。堪らえきれそうになんてない、私は全身でそう叫びだしそうになって、一目散に踵を返して走った。行き先のあてはなくてもこれ以上ここには居たくなかった。馬鹿みたいに力の限り走り続けた。



「先生には秘密が多すぎます…、全部を識りたいとは云いません。でも、こんなの酷い」
「…日野」

 慰めなんていらない、必要なのは先生だけだもの。先生は私が生徒だからお互いの気持ちを口にはっきり出してはならないと、そう言ったから。ずっと云わなかった、伝えない伝えてもらえないことがどんなに寂しくて不安でも。
「一体、私は先生の何なの?声楽を、音楽の道を専攻するなら応援します。それくらいさせて下さい。たしかに先生が居なくなるなんて嫌、とっても否で堪まらないけれど先生が先生であることが私の幸せだから」
 涙が止まらない。
「お願い、どうか私を無視しないで…」
「俺は――、おまえさんには何も云えないんだよ」
「どうしてですか?」
「確定していないことで振り回したくない。特に進路で悩んでいるおまえさんに、ごちゃごちゃ雑音を聞かせたくない」
「そんな…、それじゃ黙って居なくなるつもりだったの!?酷い、酷過ぎます」
「あぁ、そうだ」
 明瞭な即答に立っていられなくなって床に両膝が落ちた。
 今更行かないで、なんて言いたくもない。私は、私だけは絶対に先生の応援をしていたかった。邪魔になりなくなかった。
「そう…、なんですね。――解りました」
 それなら、出来ることを私なりにしなければ側には居られなくなる。
力の入らない脚を奮い立たせて未記入の音楽科編入用紙にサインした。
「先生がその気なら、私は先生を追います、愛しているの…、先生だけなの。行かないでなんて云わないから。だけど追い掛けさせて」
 簡単に諦められるような恋じゃないの。
「今まで好きでした。今だってこんなにも好きなの、これからはもっともっと好きよ。先生がどこかへ行くのなら私は何処へでも一緒に行きます。離れたら、死んでしまうわ」
「――すごい…、殺し文句だな」
 先生は困ったように髪を掻き回した。
「夏に確かにイタリアへ行こうと計画したがな、夏休みの休暇中だけなんだ」
「…‥ぇ」
「だから、少し行くだけのつもりだし二学期には帰国して普通に居るよ」
「えぇぇーーー!!!」
「や、だからさ、俺だっておまえさん置いてまで行きたい処なんて無い…んだよ。チッ、柄にもないこと云わせんでくれ」
 真っ赤になった金澤はバツが悪そうにそっぽを向いた。
「じゃ、じゃあ私の早とちり…?」
「ものすごく」
「ご、ごめんなさいっっ!私、わた…」
 大パニックを起こしている可愛い秘密の恋人に金澤は腕を回した。
「きゃっ…」
「香穂子が卒業するまでは学院にいるさ、安心しろ」

 気恥ずかしくて、それよりも嬉しくて香穂子は今、息が絶えたとしてもこれっぽっちも悔いはないと思った。
「好き…、私には先生が必要なの。居なくなったり‥しないで」
「泣くなよ」
 一瞬煙草の臭いがして唇を奪われた。もっとその熱が欲しくて目を閉じると先生はたくさんくれた。身体中が熱くてなってきて、くらくらする。一生懸命大きな体躯にしがみついた。離された後も身体の芯が呆っとする。
「ほんと、可愛すぎて困る――」
 愛しげに金澤は節張った指を少女の真白い呼吸の乱れきった細い喉へと這わせる。
「俺は余裕無いって前に言っただろ」
「あ…の、そうでしたっけ?」
 香穂子のシンパは余りにも多い。俺がこの腕に閉じ込めている女は恋人にしたいと狙う男が後を絶たないでいる。
「少なくとも、おまえさんが学院に居る限りは教職から退く気はないな。それから、卒業したら」
「したら?」
 金澤の優しい瞳に吸い込まれて自然と背伸びをする。
「ちゃんと声楽家としてやっていけたらなんだが教職を退いて、おまえさんに」
 初めて見る迷いの無い瞳を、もっとよく見たくて言葉をしっかり聞きたくて顔を寄せる。
「正式にするよ、プロポーズ」
 途端に、電流が走ったような目も眩む幸福感が香穂子を襲った。
「ハイ――。…‥待っています」
 喉に置かれた指の熱さに焼かれ答えが掠れる。
「最終進路は俺の隣で永久就職――、して欲しいと言いたいが、流石に無茶苦茶か。未だ一年半もあるし結論は日野の一番良いようにしてくれ」
 そして、たまにで良いから俺のためだけにヴァイオリンを弾いてくれ。
 後に続けた独白が聞こえたのか定かでは無いが少女は花が咲いたような可憐な微笑を浮かべて心から頷いたのだった。



 巡る季節は音もなく彼と彼女を祝福し、謳う代わりに絶え間なくその移ろいを告げる。
 春は、もう少しで訪れようとしていた。






《了》