落ちなば触れで 或いは触れもせで

 

 

 大きな反響を生んだ、星奏学院の学内音楽コンクールも終わり、制服も夏服へと移行していた。初夏特有のうだる様な蒸し暑さにも拍車がかかっている。
 陽が長くなっているとはいえ、既に薄暗い学院の広い正門を二人が歩いてゆく。やや細身の眼鏡をかけた如何にも好青年然とした青年と、可愛らしい少女だ。
彼は穏やかな微笑みを隣を歩く少女へと向ける。
「送らせて、くれないかな」
「え…、ありがとうございます」
 はにかむように頷いた少女の学生鞄を持つと、彼は嬉しそうに歩きだす。
「もう少しで、香穂ちゃんの普通科の制服姿も見納めだね」
「はい、二学期からは音楽科に編入しますから。あの…王崎先輩、出来たらで良いんですけど楽典とか見てもらえないですか?」
「うん、良いよ。俺で良いなら」
 優しい笑顔に少女は、ぱっと喜びの色を浮かべたが、すぐさまそれは困惑したものへと移ろぐ。
「大学通ってらして、バイトとボランティアもしていらっしゃるからお忙しいですよね、それに週三回のオケ部の後輩指導も大変ですし…、やっぱり良いです」
「そんなことないよ。俺で役に立てるなら嬉しいしね」
 遠慮なんてしないで欲しいのに、いつも香穂ちゃんは俺にすまなさそうな顔をする。
「楽典…、多分土浦君と月森君にきけば大丈夫だと思うんです。二人ともすごく私なんかより出来るから」
 何となく、胸が痛い。俺は週三回星奏学院へ行くけれど、もう高校生じゃない。同じ制服を着て時間を共有することは出来ない。
「だから、大丈夫です。私、王崎先輩にいつも甘えてばかりで恥ずかしいです」
「香穂ちゃん…」
「先輩、大好き」
「えっ」
「好き」
 やわらかな体温を感じる。香穂ちゃんが俺の腕を取ってもたれる。
「我儘言ってしまったけれど、私を嫌いに…ならないで――」
「嫌いになんかならないよ、それに」
 あぁ、図に乗っているのかもしれない。
「甘えるなら、俺だけにして?香穂ちゃんのためなら何でも出来るんだ、だから他の男に頼らないでもらえたらって…」
 ひどく気恥ずかしいことを言っている、だけど譲らないって決めたから。
「先輩…」
「好きだよ」
 どうしてだろう、香穂ちゃんが泣きそうだ。
「泣かないで」
「あっ…」
 思わず白い頬にキスをした。
みるみる真っ赤になって俺もつられて体温が上がる。
「ご、ごめんね!嫌だった!?」
「あっ、謝らないで下さい!…わ、私――」



 背伸びをした香穂ちゃんから頬にキス。
「私だって先輩、あの…好きなんですから」
 それこそ今、滅茶苦茶情けない顔をしているかもしれない。



 ヴァイオリン・ロマンス、それは今始まった――。






≪了≫