誰も寝てはならぬ

 

悩んでいるなんて、らしくなくて、落ち着けとばかりに、くゆる紫煙を肺に満
たせば余計に心はざわめいた。
それもこれも、お前のせい。
「頼むからさ、いい加減…‥こういうのはやめないか」
金澤は無表情に煙草へと、形の良い唇を寄せては離す。それは吸うというより
も、煙を部屋に充満させるだけの行為だ。感情を窺わせない癖に、冷淡になりき
れもしない掠れた声に、うとうととしていた香穂子が僅かに反応を返す。潤む瞳
を気怠げに見開き大柄な彼を見上げれば、判然としない意識がそうさせたのか、
香穂子はあどけないままに淡く微笑んだ。
このままでは、また夢の国へゆくのだろう。金澤はくわえた煙草を灰皿へ音も
なく滑らせると、もたれかかる香穂子の薔薇色めいた頬を軽く撫でた。
気持ち良いのか、くすぐったいのか、香穂子は眼をうっとりと閉じたまま意識だ
けは緩やかに、夢の国の狭間から温もりのある現へと引き寄せられてゆく。
「先生…」
「なんだ。ほら、起きなさい」
触れる指が離れたのが寂しいのか、香穂子は無意識に頭を更に金澤の厚い胸板
へと擦り寄せた。
「‥…」
 己を呼ぶ金色の蜜のような甘く蕩ろける声は、金澤を内心で酷く狼狽たえさせ
、そしてどうしようもなく鼓動を乱し始めた。



恋人じゃあない。
手だって握っちゃいない。唇も身体も重ねたことはない。なのに狭い音楽準備室
に、当たり前のように寄り添って、二人居る。
追われていた日野を、懇願される勢いに負けて匿ってからずっと――。
あの日を境に、こいつはふらりと現れては声も出さずに泣いて帰る。それは悔し
涙であったり、本当に悲しくて傷つけられて出る、血のような涙であったり。堪
えきれずに流される感情の雫に、俺は…心を揺らがされてしまう。いつも決まっ
て声を出さずに涙を散らせる癖に。慰めてくれとは云わないお前は。ただもう、
どこにも安心して泣ける場所がないの、と言うだけで。そんな風に泣かれたら、
追い返せやしないじゃないか。
 渋面を作る俺に、お前さんは。
「――人前で泣くのだけは厭」
 と繰り返し、大きな瞳を真っ赤にさせて泣くんだ。



 だったら・どうして・何故俺の前でだけ泣くんだ?
お前さんが堅くなに叫ぶ度に疑問符が付きまとう。
――――どうして。



あの日、絶対に声をあげないお前さんが鳴咽混じりに泣いていた。壊れてしま
うんじゃないかってくらい小さくなって、肩なんて俺の半分しかなくて。
だから。そう、だから。



「未だ、寝てろ。もう少ししたら起こしてやるから…」
疲れ果てる香穂子へと降り注ぐ優しい、極上のささやきは香穂子を静かな古淡
の世界へと誘い閉じ込めるには充分だった。それはやわらかな蜘蛛の糸が蝶を囚
える姿によく似ていた。
暫くもしない内に、香穂子は完全に金澤の腕の中へと甘やかな夢ごと深く沈む。
寝息を確認した金澤は、煙草を取るか取らまいか僅かに逡巡し、そして煙草へ
と伸ばした指を一旦、止めた。その大きな手は香穂子の軽やかに舞う髪へと絡む
。起こさないように、そっと一房すくうと金澤は次の瞬間、名残り惜し気に、ゆ
っくりと力を抜いた。掴んだその、たった一房全てが擦り抜けきる間際、堕ちゆ
く髪へと情熱的に口接けた。



蜘蛛はどちらだ。俺かおまえか――――。
黙して語らぬ彼女へ打ち明けることなどない想いを、どこかへ逃すことも無かっ
たことにすることも出来ずに。
ただただ、焦がれる恋情だけが膨らむのを金澤は知覚しない訳にはゆかなかった。




《了》