理由

 

 

 最初、どこを好きになったのかも覚えてはいない。とにかく出会方が普通ではなかったのはよく覚えている。興味を示しているのは分かったけれど、綺麗に浮かべられた笑顔からは決して好意ばかりではないものが漂っていて、私は彼へ警戒せずにはいられなかった。そう、見えるなら警告の赤信号は点滅を繰り返していたのだから。



「疲れたー」
 今日だけで何度目になるのか判らない溜息と同じ文句。どうもノン・キャリアな普通科の生徒が優秀を誇る音楽科の生徒と肩を並べて音楽コンクールへ参加となると、軋轢は目に見えて激しい。それを一日音楽科の生徒やら報道部、クラスメイトに追い回される羽目になってつくづくと思い知らされた。
自分が傍観者側であれば確かに面白いし退屈しのぎになるのかもしれないけど、当事者だからそうはいかない。
ひたすら追われるまま、薄暗い森の広場の奥へと逃げた。ここはひっそりとしていて誰も居ない。人の気配がないのを念入りに確認してから、ようやく肩から力を抜いた。
 追い掛けられて練習する処じゃない、練習室まで人垣が出来てるから一体どこで落ち着いてやれば良いんだろう。魔法のヴァイオリンというくらいなんだから消音効果はないのかなぁ。弾けば必ず誰かに見つかるのだもの。かといって自宅は防音ではないしファータと呼ばれる学院に棲息する音楽の妖精を探さないといけないから厭でも行動範囲が学内に限定されてしまう、これにはすごく辟易させられる。
 右も左も解らない、音楽は学校で習っただけ。その私にいきなりリリという自称音楽の妖精が現れて、ずぶの素人でも持てば必ずプロ並に弾けるというドラえもんの道具級の魔法のヴァイオリンを渡されたのは良いものの。渡したんだから音楽コンクールに出場しろというのは無茶苦茶で乱暴過ぎるわ。有り得ない、かなりシュールよ。
その非科学的極まりない現実離れしたことは蔓延していて、リリが見える者にしか学内コンクールへ参加する資格はないらしい。まるでお伽話みたいなのに私以外にも『見える』生徒は六人いる。六人もと思うか、六人しかと思うかは判断できないけれど、音楽を好きでもない私よりは好きで好きで学科まで選んだ他の生徒になんで資格がないのかしら?
成績には関係なく、有志参加のシステムだったらどんなに楽しいだろう、どうにもリリの言ってる事には矛盾を感じる。
音を楽しむのが音楽で沢山の人に音楽を広めたいならフリーにしちゃえば良いのにね。
それなら同じ普通科の土浦君も私もこんなに肩身の狭い思いをしなくてもいいのじゃなかったのかしら。
「…‥」
 やめるなら今のうちだわ、私はヴァイオリンを勢いよく放り投げた。魔法のヴァイオリンは見事な放物線を描いてどこかへ消え失せた。
リリが何を言っても知るもんか、整理のつかないもやもやしたこの気持ちも明日の事さえも。
芝生の良い香りにたまらず寝っ転がる。気温も丁度良い、陽射しは大樹に遮られて眩しくもない。私は眠気に襲われ意識を手放した。



「おや、これは…‥?」
 梓馬は足元に落ちているヴァイオリンケースに目を止めた。真新しいそれには見覚えがある。優勝者には音楽的な成功を約束するという栄え有る学内音楽コンクールに、普通科から参加するという少女が持っていたものだ。投げたのか芝生に軽くめりこんでる。いじめだろうか、それとも自分でやったのだろうか?
後者なら構わないけれど前者なら渡してあげないと可哀相だろう。
辺りを見渡すと真白いスカートが微かに視界を余切る。あぁ、彼女だ。
 梓馬は見たものなら老若男女問わず虜になるたであろう、とろけそうに甘やかな微笑を履いて少女に近寄った。
「おやおや」
 件の彼女は無防備に眠っている。起こすよりはヴァイオリンだけ置いて帰った方が良いかもしれない。
「んっ…」
 か細い声が彼女から発せられ、その不意打ちに新拍数が僅かに早まる。その煩悶に満ちた表情は意識のないものと思えない程にリアルだ。
寝返りを打つ彼女からは疲労の色が強く伺え、目の下の隈もそうだが眉間に刻まれる皺は安心からは程遠い。どれくらい眠っているのだろう、判らないが太陽は移動し直射しようとしている。
梓馬は上着を脱ぐと力なく横たわる少女にそっとかけた。目蓋に陽が差さないようにと手を軽くかざす。
 酔狂にも程があるのかもしれない、練習時間を圧してまで付き合うなんて。でも、興味はある。起きたらどんな反応をするだろうか?面識のろくにない相手が側に居たらびっくりするのは当然として、感謝するだろうか。それとも用心深く真意を図ろうとするだろうか。どちらにしても彼女に貸しを作っておくのは悪くない、精々望むままに優しく接してやろう。良い先輩として。
 強い陽射しを遮ぎってくれる手に後押しされて安らかに眠り続ける彼女へ人の悪い笑みを向けて楽しそうに想いを巡らせた。



 起きると隣に音楽科の男子がいた。普通科の地味なモスグリーンとは対照的な眼が痛くなる様な鮮やかなスノーホワイトのブレザー。タイが黒いから三年生ね、それにこの人は何回か見かけた気がするわ…。名前までは憶い出せないけれども、コンクール参加者の一人だったはず。
 いえ、そうじゃなくてどうしてこの人が横に座っているのかしら?しかもベスト姿で。まだ肌寒いのに。体を起こすと真白いジャケットが膝に滑り落ちた。
私はようやく全てを理解した。
「うわあぁぁっ!!す、すみませんっっ!上着お借りしていたみたいで」
「ううん、疲れているみたいだね。まだゆっくりしていなよ」
「ととんでもないです!あ…上着、草だらけ」
 うなだれてしまった少女へ梓馬は首を振る。
「君が風邪をひかなくて良かったよ。僕が勝手にした事だから気にしないで?」
 ね?と促すモデル顔負けな上級生に少女は困惑一杯といった表情を向ける。
「ふふ、そうだなぁ、そんなに気にするのなら君のヴァイオリンが聴きたいな」
「えっ、ヴァイオリンですか?」
とても人様に聴いてもらえるレベルではないんです、しかも先輩のような音楽科の最上級生には特に。お耳汚しなだけです、許して下さい。
 ごもごもと謝る少女に梓馬は更に優しい声を出す。
「うーん、というよりも君、ヴァイオリンはどうしたの?いつも持ち歩いているみたいなのに今日は持っていないみたいだね」
「あの――」
 少女は慌てて周囲を見渡す。そうだわ、弾くも何も捨てたんだわ、私。
 飛び上がり弾丸のように楽器を探す少女を、梓馬は声を立てて華やかに笑い、制した。
「‥ふっ、あははは、ごめんね。ヴァイオリンならここにあるよ」
「どど、どうしてこれが!?」
「うん、歩いていたら落ちていた。びっくりしたけど、この真新しいケースには見覚えあったからもしかしたらと思ったんだ」
 そうしたら眠っているのが見えて起こすのも悪いし、かえって驚かせてしまってごめんね――。

 彼の声がやたら遠い。

 演奏家にしたら生命線ともいえる楽器を放り捨て、あまつさえ寝こけているのに上着まで借りたなんて。
穴が有ったら入りたい。いっそのこと死んでしまいたい。
「わた…し、私は実は」
「なぁに?」
「楽器捨てたんです、すごく嫌で否で堪らなくて。これさえ無ければって思ったら」
 自分でも抑制がきかない、こんな事は初対面もいいような相手にブチ撒ける内容ではないのに。
それなのに堰を切ってあふれる強い感情に蓋が出来ない。
「どうしてリリなんて居るんでしょう?妖精なんて非科学的過ぎるじゃありませんか、有志で何故許されないのでしょうか?クラシックなんて敷居が高いんですよ。音楽に精通してる訳でも好きでもない側からしたら!」
 甲高い悲鳴を放つ彼女を梓馬はに真っすぐに見据えた。吐き出すようなこの叫びは生活を奪われた者の声だ、彼女はこの事態を了承していないと。そういうことか。
「こんなもののせいで、全部が変わってしまいました、私は前の生活に戻りたいんです」
 戻りたいんですと繰り返す弱々しい告白は聴衆によっては憐憫を覚える調子だが、梓馬は違った。
「…‥辞退するの?」
 控えめな問いは少女に水を浴びせる程の威力があった。ちいさな憂えるそれに我を取り戻した、胸には鋭くて。
でも、言った彼はとても悲しそうだった。
確かにこの不愉快な状況を逸するには辞退がてっとり早い。散々普通科の癖にと言われてきたのだし。
 それなのに土浦の『参加したくても参加出来ない奴がいるんだぜ?だったら腹くくれよ、な。俺もお前も』という台詞が瞬間脳裏に甦り即答は躊躇らわれた。
 顔を下げてしまった少女に返事の色はない。
「あのね、リリはリリだよ」
「…え?」
「僕ら人間とは違う生き物だという事だよ。…だから有り様もきっと異なるのじゃないのかな。本能的に人が繁栄と繁殖を選択する様に、ファータの望みは音楽の繁栄であり繁殖なのかもしれないと思う」
 考えてもいなかった指摘に私はぽかんと口を開けた。
「きっとね、リリも有志で皆が参加したら嬉しいし幸せなんだと思うけれどリリは決まった人間にしか見えない」
「はい…」
「そしてリリにも『見える』人間を選択する事は出来ない。関わるにしても神様がなさるような奇跡を起こせないらしいし音楽しか頭にないようだ」
 梓馬は言葉を一旦切り眼差しを和らげた。
「どんなに好きな人間がいても姿が見えなければないものとして扱われてしまうよね、だって存在すら識り得ないのだから。人間はファータより寿命は短いし、だからあんなに必死なのじゃないかな、あれだけ人間好きな妖精なのに総ての人間に存在を語れる訳ではないのだもの。見えた人間に伝えるしかないんだよ」
 ざあっと風が下から吹き抜け上へと駆けた。少女は考え込む。

「僕はね、君が辛いと悲しい。何か力になれたらと思う。星奏学院はずっと学内コンクールを開催してきたけれど、音楽が一部だけの人間の楽しみになってしまったら最早大半の意義を失ってはしまわないだろうか」
「意義、ですか?」
「うん、人に根付かなければね。思想も技術も」
 それは何となく解る気がした。
「音楽と一口に言ってもジャンル区分もされているし、それだけ好みもあって然るべきだと思う。まぁ、クラシックは馴染みにくい分野なのかもしれないけれど」
「そうなんです」
 馬鹿正直な答えに梓馬は吹き出しそうになるのを堪えた。
「そう、音楽といっても馴染みの薄いジャンルもある。誰だって最初から興味を持つ訳じゃない」
「きっかけが必要という事ですか?」
 聡明な返答に梓馬は満足そうに優雅に頷く。
「たまたま見えたとしても、君という存在そのものが色々な人に影響を及ぼし波紋を広げる。そしてそれは良い方向に働いてゆくんだと…僕は信じるよ。僕もね、非力ながら自分に出来る事がまだ残されているのなら出来るだけの事をしたいと思う。…けれど、その前に僕はもう卒業も近いし進学を念頭に置くと自信がなくなってね。だからコンクールの辞退も勿論考えた」
「えっ…?」
「意外だという顔だね、ふふ、皆どうしてだろうね、必ず僕は参加するものだと思っているみたいだ」
「だって、それはそうですよ。先輩は何でもちゃんと出来ますし。あの、噂と人伝てばかりで恐縮なのですけれど、先輩は何をなさっても一番だって聞きました」
 私は意外過ぎて動揺を隠せない。
「まさか、そんなたいしたものではないよ。それ処か何時も考えるんだ、僕にきちんと出来るだろうかと。引き受けた時点できっと責任というものは発生するんじゃないかな」
「…‥」
「期待してくれる人達に可能な限り沿いたいから迷ってしまうね」
 こんなに能く出来る人でも迷うなんてあるのかしら。
「でも、迷われても結論を出せるのだからやっぱりすごいです。私は迷ってばかりで結論出せなくて」
「うーん、迷う事は悪い事とは思わないから急がない方が良い」
「そうでしょうか‥」
 そうなのかしら?
「迷うというのはね、成長している証拠という向きもある。考え過ぎても始まらないけど真っすぐに向き合うのも必要だもの」
 強い言葉に揺さ振られるのを感じた。誰もこんな事を言ってはくれなかった。
 一体自分は何のか。
それが判からないから苛立っていたけれど。
「逃げ、られないんですね。いいえ、逃げるものではないのですね」
「どうかな、これはあくまでも僕の一個人の解釈に過ぎないから。どれが正解かは君が感じたままのものを先ず選ばないと、ね」
 後悔しないように、という言外の含みは伝わった。たとえ外れていてもやり直しはきくのだし。
音楽科に進む人は単純に言えば、それだけ早くに何がしらかきっかけがあって好きになれたということなのかしら。
 梓馬はすっかり固まってしまった少女の肩をぽんぽんと撫でる。
「さ、難しい話はこれでお仕舞い。ねぇ、音楽そのものに興味が全然ないのかな?」
「それがよく分かりません、戸惑いが先に立つというか」
 でも辞退をするかというと、どうめ負けたみたいで悔しい気がする。
「そっか、じゃあ――」
 梓馬は付着した草を素早く落として起立すると一転座りこんでいる少女の手を取った。
「はい、立って」
 云われるままおずおずと立つと、梓馬は少女のヴァイオリンケースを抱えて明るい方へと歩みを進める。
「あ、あの、どこへ?」
「一人で演奏してばかりも恥ずかしいよね、だから」
「はい」
 だからどうしたというのだろうか。
「一緒に合奏しよう」
「――は?…‥えぇぇー!?」
 とんでもない、そんなことは無理よ。技術レベルも解釈レベルも比肩の対象にすらならない。泣きそうな自分におかまいなしに彼は引っ張る。
「やれるだけやってみようよ。辞退するのは本当に君の自由だけれど、やって後悔するかやらずに後悔するかを考えて」
「…私、割と負けず嫌いなんです」
「そう。ならやりたいように思い切ってやってごらん。僕でよければ何でもするから」
 今更ながらに気が付いた、彼の何と姿勢の良いことか。ピンと伸ばされた背中からは毅然とした決意を感じる。自分が真似した所で肩で風を切るだけのいきがった態度にしかならないだろうに、どこから来る差なのだろうか。
 潔いのに圧迫しない。清廉としているのに華やかで。
思わず、最近猫背がちだった背を伸ばしてみた。
 梓馬は大切な事を思い出して歩調を弛めた。
「あぁそうだ、ごめんね。僕、自己紹介もしていなかったな。音楽科の三年柚木梓馬、フルート専攻。君は?」
 そういえば自分も名乗っていなかったのを思い出した。
「はい!私は普通科二年の日野香穂子といいます」
「うん、良い名前だね。日野さん、でいいかな」
「は、はい!!柚木先輩、有難うございます」
「お礼を言われるような事はしてないけど、日野さんの役に立てたなら嬉しいな」
 真摯な柚木先輩に私は心底済まなくなった、こんなに誠意も思いやりもある立派な人なのにどうして音楽室で出会った時に警戒してしまったんだろう?
慣れない事とか予想外な展開に動揺しきっていたのだわ。そうでなければ高尚高潔高邁そのものな慈悲深い先輩をうがった眼で見る事はなかっただろうに――。
「のんびりやると良いよ、日野さんのペースで。焦っても辛いだけだよ。あぁ、そうだ。はい、飴」
 ころんとした飴はレモンミルク。
「甘いけれどさっぱりしてるんだ、疲れた時に糖分は有効らしいから良かったらどうぞ」
「――先輩、本当に有難うございます。嬉しいです」
 泣きたくなった。音楽科の人からこんなに親切にしてもらったのは初めてだ。鼻の奥がつんとして、私は誤魔化すように頂きますと断わって飴を口に放り込んだ。



 手を離されて、やたら人口密度の高い場所へ案内された。
森の広場の中央に私達は居る。先輩を愛してやまない『柚木様親衛隊』方々の刺し殺す勢いな視線と、野次馬達の好奇心に満ちた冷えた視線が痛い。
「はい、始めるよ」
 涼やかなかけ声に促されてヴァイオリンを構える。先輩のリードで始まった楽曲はシューベルトのアヴェ・マリア。
まるで中世フランスの宮廷音楽みたいな麗しい音は先輩そのものだ、人を魅き付けて仕方ない。何て美しいの。
楽しいだけなのとも違う祈るような音色が、拙い私の音を呑みこんで辺り一面に広がってゆく。
終わると拍手喝采ものだった。先輩に。
「この拍手は日野さんのものだよ」
「そんな訳ないですっ」
「ふふ、だって半分は普通科の生徒だよ。僕一人では素通りされてた」
 恥ずかしくて至らなくてひどく惨めな気持ちで胸がいっぱいになる。
弾くのならもっと先輩の美しい演奏に近づくようになりたい。先輩が綺麗なのは外見だけではないわ、総てが美しい。
「あの、もっともっと練習します。これよりましになったらまた合奏して頂けますか?」
 今はこれしか言えない。そして辞退の二文字は選択しないと今決めた。
「楽しみにしているよ…って、今も楽しかったんだけれどもね」
 意識しなくても曲がらず反らされもしない張りつめた背筋から眼を逸らずにはいられない。
「私、やれるだけやってみます!」
「何か僕に出来る事があるなら言って欲しいな。無理してはいけないよ」
 先輩の優しさに私は心から感謝した。受験生の先輩に面倒はかけられないなとも。
それでも現金なもので応援してもらえると聞くと本当に寂しさが消える。
「私、先輩の後輩として恥ずかしくないように頑張ります。コンクールとか初めてですけど、もう泣きごとは言いません。では、失礼します」
 ぺこりと行儀良く頭を下げて香穂子は駆けて行った。
演奏も終わり、香穂子がいなくなった途端親衛隊が梓馬を彩る。学院の貴公子は少女が駆けて行った方向を軽く一瞥すると誰にも聞こえない胸の内で呟いた。


初心者らしいが、お手並み拝見といこうか。俺を退屈させるなよ?お前は楽しめそうだからな。
後、もう少しだけ良い先輩でいてやるさ。ある程度育たないと潰し甲斐もないものな。
頑張って欲しいな、久々に…全力で潰してやりたいと思ったのだから。




 不敵な眼の輝きは刹那浮かんで無散した。
彼の本性に香穂子が気付くのは、そう遠くない。






《了》