呼べよ 名もなき

 

  

 華やかなりし一千年の都、京に暗い影が音もなく忍び寄る。密やかに息を詰めてにじり寄るそれに気付いた者は果たして幾人居たのであろうか、人語を解さぬもの達だけが一心に身をふるわせ、葉擦れに紛らわせて声無き悲鳴を上げ続けていた――。




 美しき妖かし、『鬼』と呼ばれる異形の一族が天災と人災とを京に蔓延(はびこ)らせ、滅亡せしめようとしていることは今上帝を筆頭に一部の貴族と僧侶しか知らない。そして策を煩悶する彼らに鬼と対峙出来る異能の『星の一族』の末裔である左大臣家末子の藤姫と呼ばれる幼き姫から「京を救う客人(まろうど)が天から遣わされる」と高らかに託宣されて既に一月は経過していた。
 程なくして異世界から訪れた客人は合計で三人と思われた。白龍の神子と崇め奉られるべき少女が一人に、後二人の少年達は八葉といわれる神子の剣であり盾という託宣通りの内訳だ。
 しかし客人というカテゴリーに一括りしても、元居た世界から突然さらわれてきたようなものだから反発は一様にあったらしい。使命を感ずる者・順応する者・そして誓いを果たそうとする者とまさに三者三様だったのだから。試練に立ち向かわなければならない現実は同様でも胸に去来するものは別なのだ。


 様式や慣習の異なる客人達は隆盛を誇り今や飛ぶ鳥を落とす勢いの左大臣家に招かれたものの、心休まらない日々を余儀なくされる。
 その中でも取り分け、森村天真という青年期に入りかけている少年は一番に複雑な立場にあると言って差し支えなかった。
 二年前に『誘拐』された実の妹が『神隠し』にあって、こちら側に居ると判ったのだから。
 最初は呆然とした、数少ない友人の、後輩の流山詩紋や同級の元宮あかねにさえ痛過ぎて告白出来なかった『さらわれた妹』の存在は、決してこんな状況が訪れなければ永遠に明かさなかったものだろう。





「天真センパーイ!今日も一人でどこに行くの?」
 元気よくパタパタと軽快な足音を立てて詩紋が天真へと駆け寄る。この世界に在っては不吉とされる『鬼』特有の証である金髪碧眼を、たまたま持ったまま訪れてしまった美しい少年は、その環境に負けじと屈託なく笑う。「ん?何だよ、俺だってたまには一人になりたいことだってあんだよ。それより、お前はあかねを守ってやれ。さっき泰明と二人でお前を探してたぜ?」
「えー!?あかねちゃんが僕を?どうしたんだろう、ごめんなさい、天真先輩、僕あかねちゃんのお部屋行きますね」
「あぁ、頼む、明日はちゃんと館に居るからさ。あかねに宜しく言っておいてくれ」
「はーい」
 返事をしながらも詩紋は、あかねの居るであろう部屋へと全速力で駆けてゆく。せわしないそれに天真は片手を上げて見送った。
「…良かった、アイツ妙に勘良い所あるからなぁ」
 思わず溜息が洩れた。詩紋はやたら勘が鋭い、あかねや藤姫曰くはアイツが純粋だから、らしいが。


「さぁて…行きますか」
 最近、ようやく慣れてきた佩刀の重みに慚鬼の念だけが込み上げた。
「――ごめんな、遅くなって…‥」
 周りに誰も居ないことを確認してから、どうか気付いてくれと探し続けた彼の人の名を呼んだ。風が想いを乗せてくれるのなら、今届いただろうか。この異世界のどこかに居るのだと思うと頭がおかしくなりそうだ。これから行くから間に合ってくれ。消えない面影は哀しいかな、決して成長しはしない。何時まで経ってもあの日のままで。

『怖いの、傍に居て…』

儚なくすがった最後の声も熱も、どれだけリピートされたか分からない。
約束は、守らなかった。
 そのせいで彼女は――。
「‥…蘭っ――」





 不定期に落下する雫の音だけが確かと錯覚させる程に虚無的である洞窟に、さらわれたランは力なく横たわっている。
 鬼達に黒き神子とされた少女は破壊だけを司る、操られ命ぜられるままに酷使されても記憶は封じられ自分が何であるかも疑問を持たない。
それなのに、ある日を境にランは自我が目覚めつつあった。
「イタイ…」
 ――頭がハッキリしない、トテモ‥…イタイ。
「てん…ま‥?」
 温かな水が目から沢山流れる。地の青龍で天真と名乗る男をみかけてから、酷く胸が締め付けられてこうやって涙があふれる。
目を幾ら見開けど暗くて黒い色しか判別出来ない高い天井に向かってだるく重たい腕を伸ばした。
「ラン、何をしている」
 びくりとランはふるえた。


 艶やかな美声は恐ろしい主人(あるじ)のものだ。気配を全く感じさせない妖かしは弛緩しきったランの常とは違う様子に興味を覚えた。
 値踏みする刺すような氷の視線に辛い仕置きの予感が呼び覚ませられたランはひたすら本能的にずり退がる。
「ほぅ?まだ動く力があるか」
「お館様…」
 泣き濡れた瞳にアクラムはつまらなさそうに口を結んだ。傍らで片膝をくと、恐怖から言葉を忘れた少女へ、いっそ優雅に指で額を押さえた。
「封印が弱くなったか、お前にはまだまだ役に立ってもらわねばならぬ…もう眠れ」
「‥…」
「お前は私の傀儡なのだから、意志など要らぬ」
 残酷な儀式が始まろうとしているのに抵抗はない。ただ、あどけない微笑みを浮かべておとなしく瞳を閉じた。
「そう、眠れ――」
 ランは気付かずに術を使うアクラムにこそ、ひっそりと嘲笑ったのだ。
「‥はい、お館様」
 私の自由も何もかもを奪えるこの男でも、解らないことはあるんだ。あんなにはっきりと聞こえたのに――。
聞こえないのね、だから気付かないんだわ。


 ――あの人が誰だか、もうワタシには分かってしまった。
力強くワタシを呼ぶの、存在のあやふやなワタシを形にして留めてくれる…兄の声が。



 大好きなヒト…‥



お兄ちゃんだけがワタシのたった一人の大切な神様だから。報われなくても絶対なの。
叶わないなんて知っていても考えれば涙が出た。
お兄ちゃんに触れられただけで私は胸が激しく脈打った。
愛してくれることを想像してはたくさん泣いた。
守ってくれているその時は独占出来るからそのまま死にたかった。
答えてもらえなくても、それでも私は好きだった。


 待っていたの待っているの。もう一人じゃないよね、来てくれるって分かっていたの、ずっと信じていたから。次に目を覚ましたら必ず傍に居るって。


「眠ったか」
 意識の無いことを見てとるなりアクラムは掻き消えた。
 幸福そうに眠る少女を後にして。


 「あかねちゃん、僕に用って何かな」
 あかねに呼び出された詩紋は全力疾走したために、うっすら汗をにじませていた。
 冷ました白湯を出しながらも息を整わせる間が惜しくてあかねと泰明は疲労しきった詩紋に容赦無く詰め寄る。
「あのね、詩紋君、天真君の様子どう?すごく思い詰めてるカンジしたから…。私じゃ話にくいみたいなのよ、悔しいけどこういうのは男の子同士だったら話易いみたいだし。天真君一人で妹さん探しに行ったんでしょ?連いていくと怒られるけど、心配なのよ」
「気が乱れている、神子にも良くない。神子がうるさいので隠密裡に頼久を天真に張らせたがお前は何をしている」
 二人に一遍に問い詰められて詩紋は適切な答えに窮した。
「やっぱり天真先輩は妹さんを探しに行ったんだ…」
「そうなのよ水臭いよね、近頃の天真君て出会った時の天真君みたいで見てられないよ」
「出会った時の…、天真先輩?今よりもとっつき難くて怖かったってことかな」
「それもあるけど私達の名前呼んでくれなかった」
 確か、そういえばそうだった気がする。
「個別認識してないの、視界を閉ざして」
「『お前』だもんね、誰にでも」
「そ、だから初めて名前で呼んでくれた時は感動ものだったんだから。折角良いカンジになってきたのにさ、これじゃ逆戻りで悔しいのよね」
「神子、悔しいのか?」
「当ったり前じゃない!天真君が苦しいのに役に立てないんだもんっ」
「そうだね、僕も悔しいよ…‥」
 詩紋は己が服の裾を掴んで憤りを遣り過ごすより仕方なかった。
「どうしたら、良いのかな…‥」
 鼻声に気付いた泰明があかねの頭を優しく撫でる。
「泣くな、以前の私であれば神子…いや、あかねの痛みは完全に理解しようとすらしなかっただろうが今は違う。あかねさえ望むなら八葉として必ずや願いを叶えよう、お前も天真も…妹御も最早一人ではないのだ」
「‥…っ、泰明さん」
「あかねには私がずっと側に居る。‥私一人では頼りないやもしれぬが、あかねが泣くなら涙は拭えると思う。天真のことも何もかもきっと上手くゆくから」
「――た、頼りなくなんかないよ!泰明さんが一番だもんっ」
「あかね…」
 目も充てられない程、いちゃつき始めた二人に今度こそお腹いっぱいになった詩紋は礼儀正しく眼を逸らし、そっと部屋を出た。




 渡り廊下を歩いていると、どこから迷い込んだのか桜の花びらが数片、散っていた。一枚、手に取って唇に押し当てた。
「そうだね、僕も名前を呼んでもらった時…‥、すごく嬉しかったな」
 名残惜しかったけれど花びらを手放し風に乗せる。あっという間に花びらは消えた。
「蘭さん、だったっけ。天真先輩は蘭さんの名前しかもう呼ばないんだね、僕達のこと、いらなくなっちゃったのかな」
 血の臭いがする。強く唇を噛んだせいだ。
「行かなくちゃ…」
 このままじゃ、皆で帰れない気がするから。あかねちゃんも天真先輩も蘭さんも、皆で帰るんだ。
 そうは思うのに、蘭さんを呼ぶ先輩は不幸で辛そうなのに、すごく幸せそうだから。
「ねぇ、たった二人ぼっちになるのが幸せなのかな、すごくすごく幸せなのかな」
 寂しいはずだって思うけれど散っても綺麗な桜みたいに――。


 恋はなんて狂おしい。






《了》