究極の選択




 ‥…どうしよう。

 藤岡ハルヒはかつてない程に恐れおののいていた。
そしてそれは当事者二人以外の、ホスト部の部員全員が似たような状態であるには違いなかった。
 目の前で繰り広げられている悪夢にも似た現実が、普段華やかな部室の空気を重く澱んだものへと一変させていた。
最善の行動と行為が判然としないまま、うなだれている当事者の片割れはひたすらに落ち込み続けている。
 沈黙を破るべく口火を切ったのは勇者の称号を不本意ながらも授与されてしまっているハルヒだった。
「本っ当に、鏡夜先輩と環先輩は入れ替わっちゃったんですね~…‥」
 見たままの感想に光と馨は、まぁ、面白いけどさ、と無責任に付け加えた。
「えっ!じゃあこのきょーちゃんはたまちゃんなの?本物のたまちゃんはたまちゃんじゃなくて、えぇときょーちゃんで。じゃあ、たまちゃんなきょーちゃんはどこへ行ったの?さっきから居ないねぇ」
「…‥あぁ」
 ハニー先輩は、うさちゃんをぎゅうぎゅう抱き締めながら興奮し、モリ先輩はいつも通りに相槌を打っている。
 大体、中身だけが入れ替わるなんて、なんて漫画みたいな…。
幾ら日頃から人並み外れてかなり非常識な人達とはいえ、ここまでくると有り得ない。
「そう、有り得ない…」
 鏡夜の姿をした環が、ハルヒの決して小さくはない独白に我が意を得たりとばかりに顔を上げた。
「そうだよな~、あぁ!これは神が与えたもうた試練なのかっ!?美しく完璧である俺への。しかしこのままではハルヒも恐れを為して近寄り怖いだろう、お前が慕う以前の優しい姿の俺に戻るには一体どうしたら」
 止む気配の一向に伺えないマシンガントーク、それも自己陶酔の相当入った涙混じりのそれには随分馴れているはずなのに今日は違う。


 怖い!!
鏡夜先輩の泣き顔恐い!


 しかもあの低い声で泣かれると頭が痛くなる。
 ハルヒはテンションが高騰し始め情緒不安定気味な環の肩へ、出来る限り刺激しないように慎重に手を置いた。
「泣かないで下さい、絶対に戻れますよ。鏡夜先輩だって必死に原因を調べてくれているでしょう?それに、100%無理な事なんてきっとないですよ」
「…ハ、ハルヒー!」
「うわあぁっ!抱きつくな!!離せぇっ」
 戻らなかったらシャレにならない。何とか励まそうとしたら、すぐこれだ。蹴たぐり倒してしまいたいけれど身体は鏡夜先輩なんだよな、うっかりアザをつけようものなら法外な慰謝料を普通に要求しそうだから何てややこしい。いや、ちょっと鳩尾に肘を入れたってアザにならなきゃ分からないか…――。
 ハルヒは手加減しながら肘鉄をくらわした。
「えゃっ」
「ゴフッ!」
 掛け声は小さかったがクリーンヒットだったらしい。涙もひっこむ激痛に、環はおよそ日本語ではないであろう意味不明な喘鳴を垂れ流した。
 中身は正真正銘、環といえども器は紛うことなく鏡夜だ。普段鏡夜へ鳩尾に肘鉄をお見舞いするなど、どんなにしたくても出来ようはずもないハルヒにとっては多少の意趣返しにはなったらしい。
おぉ、とかぐえぇとか情けないことこの上ない呻き声をあげ続ける鏡夜の姿に、軽妙な爽快感と達成感を覚えずにはいられない。環には、ほんの原子レベル単位程度で申し訳なかったかなぁと思いつつも、清々した心持ちに成るのは止むを得なかった。
 ふぅ、と額に滲む光る汗を拭っていると鏡夜が不機嫌そうに現れた。
「環、何を遊んでいる。俺の姿でうっとうしく喚くな」
「き、鏡夜、何か分かったか!?」
 鏡夜は答える代わりにパチンと指を鳴らした。
「鏡夜様、お持ち致しました」
 扉前で待機していたのか鏡夜のボディーガードを務める橘達が、これでもかという量の書籍やら書類を運んで来た。
「御苦労、下がってくれ」
 軽く手を上げたのを合図に、黒づくめの集団はうやうやしく一礼をすると退室していった。
「脳波も身体も異常無し、そもそも入れ替わった原因が解明出来ていないのだから即座に解決するのは難しいな」
 言いしな、眼鏡のツルを丁寧に指でつまむ。本来、環には眼鏡が不要なのだが鏡夜は掛けていないと落ち着かないらしく、伊達眼鏡は手放したくないらしい。

「「うっえ~、この調べ物の量、僕ら二人分はあるんじゃん。調べきれないよー」」
 双子はやる気がほとんどないのか資料を見上げるだけで、触ろうともしない。
 ハニーに至っては天使の笑顔で、非建設的かつ原始的な方法論を展開させ披露した。
「ね~ぇ、頭ごっつんこしたら元に戻るかな」
 無邪気で血まな臭い提案にハルヒは嬉々とした。
「ハニー先輩、それ名案かもしれないですよ?漫画だとそれで元に戻るパターンとか有りますし、試してみても良さそうですよね!」
「ハルヒ…、それは父さんちょっとイヤかな」
 痛いもん、という環を間髪入れず叩き伏せる。
「原因が解明出来たら勿論良いですけど、それじゃ何時になるか分かりませんし、やれるだけ全部試すのも近道かもしれませんよ」
「それはそうだが、その方法が問題アリかにゃ~、なんて」
 力説に押され環は悩み始める。確かに一利は有るが、戻る位のごっつんこの衝撃の度合いが皆目見当つかない。

「じゃ~あ、キスとかは?痛くないでしょ?眠り姫は勇者のキスで元に戻るよね、ハルちゃん勇者だから二人にしてあげたら?」
 童話を現実に持ち込まれたくない以前に、それは大体勇者ではなく王子様だろう、完全に間違っている。
さらっと、とんでもない爆弾発言をしたハニーにハルヒは背筋が凍った。
「な、何で自分がこの二人にしなくちゃならないんですかっ!?するならそんなのは当人同士でして下さいよ」
 生温かい微笑みを浮かべた鏡夜がにじり寄り、ハルヒは本能で逃げるが後ろをがっちり環に塞がれて泣きたくなった。
「幸か不幸かお前は初めてじゃないんだ、長い人生こんなこともあるだろう」
「あるかー!」
「‥…ハルヒ、怖がらないでさぁ、どんと来い」
 退路を絶たれてハルヒはあらん限りの力で腹から叫んだ。
「イヤだあぁぁー!!」




「やっと元に戻ったな」
「ず、ずるいぞ鏡夜!これじゃ不公平だ」
「結果オーライだろ?な、環」
「皆キライだぁっ――」
 片方にキスをしたら戻ったのだから双方にするのは免れたにしろ、どちらにしたのかは永遠に三人の秘密らしい。




「あのまま戻らなかったら、やっぱりあっちを選んだのか?」
 一日がかりの騒動も終結し、皆が帰宅したというのに鏡夜にハルヒは更衣室で自由を奪われていた。机に座らされたものの立ち続ける鏡夜とは目線を合わせるのも大変だ。
「そんな…分からない…‥」
「分からない癖にキスしただろ?」
「だって――」
 ネクタイが手首に食い込んで痛い。後ろに回され、きつく縛られているから、どうにも動きずらい。
「‥こっちを向いて」
 イヤイヤをするように首を振るハルヒの細い顎を指で易々と固定すると、今日だけで何度目になるのか分からない口接けをする。ふるえる内股に制服の上から撫でるのも忘れない。眉が苦しそうに寄せられるのを堪能しながらネクタイをほどいた。
「お前からしたら許してやるよ」
「そんなの、…出来ない」
 すっかり紅い跡のついてしまった白い手首を取り、鏡夜はなぞるように唇を這わすと、堪らえきれない甘やかな音が密室にこぼれる。
「意地悪だ」
「真逆、可愛がってるだろう?いつも…‥」
 足腰が立たなくなるまで――。
 囁かれてハルヒはおとなしくなる。そしてそうと判る程に赤くなった。
「おいで…‥」





 中身が入れ替わった場合、普通は器を重視するのは最初であって、徐々に中身へと移行するものらしいけれど。
「難しいよ…」
 服を着込みながらちいさく呟く。
「なんだ?ハルヒ」
「…疲れた」
「――そうか」
 膝に抱き上げられて、なすがままにもたれる。




 きっと、今や精神も肉体もこの人に奪われているのだ。
そして今は無理でも、いつか必ず戻ると思ったからそのままキスをした。
「先輩って、結構わからず屋ですね」
「ん?」
 憎まれ口をどう解釈したのか、鏡夜は静かに腕を回すとしっかりと抱き締めた。
「そうかもな、特にお前には…‥」
 熱が再燃する。
「もう、今日は無理…‥。あんっ」
 折角はめたボタンを外されて抗議出来たのは一瞬で。ハルヒは強く目を瞑った。
伝わったのか伝わらなかったのか――。
言うのは癪で、噛み付くようなキスを贈った。





《了》