熱痕


 桜蘭高校生全てが待ち焦がれていた、心踊るその瞬間がまさに訪れようとしていた。
 学生の学舎としては奢侈に過ぎる建築物が立ち並ぶ一角において、最も広大かつ多目的に使用される場所に全校生徒は集結していた。無論、教師を始め学校関係者もあまねく集っている。
 校長は、体育館全体に響き渡る声で壇上からたからかに宣言した。
「では、皆様、良い夏休みを送られるように!」 と。
会場は声無き解放感に満たされた。



 夏休みは明日からだ、授業も部活もない。ハルヒはいそいそと鞄に手をかけ帰路を急ぐ。
ここで余計なことに巻き込まれたくはない。最近、夏休み前だからと部員達が
『ね~ぇ、崇と僕と一緒にスイス行かなぁい?』とか、
『俺達とバリに行こうぜ!パスポート用意したら連れていってやるからさ』
…と、やたら五月蝿い。
 部長の環先輩にまで声をかけられたらウザくてかなわない。部長なだけに性質が悪い、部の企画だと言い張られるとやらなくちゃならないもんな。
 ハルヒは玄関へと向かいながら溜息を吐いた。
「なんだ、溜息なんて着いて。溜息を吐くと幸せが逃げていくそうじゃないか、なぁ、ハルヒ」
「鏡夜先輩…」
 この副部長もかなりの食せ者だ、早く逃げた方が良い。相変わらず本音を読ませない笑顔でこっちを見ている。
これに騙される人も中々いないだろう、すっごく胡散臭い。
「自分だって、たまには人並みに溜息くらい吐きますよ」
「なんだ、疲れているのか?だったら温泉はどうだ、国内リゾートなら安く手配するぞ」
「遠慮します」
 これも一応、お誘いの範疇に入るんだろうか。だけど、リゾートに行く余裕なんて一介の高校生には無い。ましてや行く気は面倒臭くて更に無い。それに鏡夜先輩に付き合うと…。
「代金は無利子にしてやる」
「借金が増えるだけですから鏡夜先輩のお誘いは御遠慮しますよ。あと、訳の分からない実験に付き合わされるのもごめんです」
「なんだ、分かっているじゃないか」
 やっっぱりそうだ。
「まぁ、こんなところで立ち話もなんだ、カフェへ行こう。まだやっている」
 どうやら解放してはくれないらしい、しぶしぶ頷く。
「恐い顔をするな、好きな飲み物をおごろう」
「や。良いです。また元手は自分とかいうと悲しいですから」
「…そこまで守銭度じゃないんだがな。どうも、姫君は御機嫌が麗しくないようだ」
 そこまで疑われる人格だというのを鏡夜は綺麗に棚上げしてハルヒを食堂へとエスコートする。
「さすがに誰もいませんね」
「そうだな」
 夏休み前日の校内食堂は自分達以外誰もいない。普段賑やかな分、ガランとしていると全く違う場所に見える。タッチの差で配膳係の方々も帰ったみたいだ。
「座ったらどうだ」
「あ、ハイ」
 じっと自分を見つめる先輩の視線に気がついた。
「髪、伸びたな」
「そうですか?」
 前髪がそういわれれば邪魔くさい。
「双子に切ってもらうか?」
 長くなった前髪を先輩が指で梳く。くすぐったくて笑ってしまった。
「くすぐったい、あははっ。くすぐったいですって…。ピンで止めるから平気です、伸びたっていうのなら先輩だって…」
 ハルヒは何の気なしに鏡夜の、見た目の硬質そうな黒髪が気になって、触れてみた。反して割とやわらかくサラサラしている。生き物のように気紛れに動くそれに没頭する。
「先輩、邪魔じゃないんですか?眼鏡もあるし。視力落ちちゃいませんか?」
 鏡夜は答えず椅子に座り、触れ続けるハルヒの手首を掴む。
「そうされるとくすぐったいな。ほら、座れ」
 軽く引き寄せるとハルヒを膝に乗せてしまう。「っ!!ちょっとやめて下さいっっ!」
 言葉が続かない、うなじの辺りに冷たい唇の感触と長めの前髪が当たってくすぐったい。
「おまえは素直じゃないからな、質問形式を変えてやったんだ。見識のある俺に感謝するんだな」
「な、なに言って…、んぅっ」
 後ろから抱き抱えられていて先輩の表情は見えないけれど、絶対嗤ってる。しつこくうなじに唇が当たって苦しい。
手がふるえて先輩が支えていないと力が抜けて床にへたりこみそうだ。
「夏休み…用事でもあるのか?」
 低音が耳を犯す。
「…そんな、関係ないじゃ…‥あっ!やぁっ」
 うわずる声を必死で塞ぎたくても先輩の制服を掴んでしがみついているだけでやっとだ。
「答えが欲しいんだが」
 しゃべりながら唇をうなじから首元へと移動させる不規則な動きに辛くなってきたハルヒは涙を溜め始めた。
「せ…ぱい‥、やめて」
「言えばやめてやる」
 おかしなもので、辛いのに頭を占めるのは誰かに見られたらどうしようということばかりだ。
「強情だな」
「べ、別にどこにも…」
 言い終わらない内に鏡夜はハルヒの薄い耳たぶを甘噛みした
「ーーっっ!」
 涙がとうとう零れた。ポタポタと互いの制服を濡らす。時折肌に触れる眼鏡の金属特有の冷たさは鏡夜そのものの様で、ハルヒの背筋は狂おしくしびれてゆく。
「ちゃんと答えたら離してやる」
 かぶりを振り続けるハルヒの顎を取って唇をそっと重ねた。
「んっ…」
 空調が効いていないのか、ひどく暑い。窓から射す激しい陽に汗ばむ。
 身動きを許されなくても舌の侵入だけは阻止したくて、ひたすら奥歯を噛み締める。
 鏡夜はこじあけるのも楽しいかもしれないと思ったが、ハルヒの甘い唇を優しく舐めることで容易く防御を挫いてみせた。
つっ…と、唇の口角からなぞるように舐めてゆくと、苦しいのか新鮮な空気を求めて真白い歯が覗いた。すかさず舌を押し込むと、くぐもった抗議の声が聞こえたが揺れる舌を強く吸うとあっけなく声は呑み込まれる。
たまらず横抱きにされたハルヒは広い肩にきつく爪を立てた。

「ふっ…んぅ――」
 絡む舌にあらがえず、机にそのまま押し倒される。
「は、はあっ‥苦し」
 細いハルヒが組み敷かれるのはあっという間だった。
「抱き心地が悪いな。少しまた痩せたんじゃないか?」
 うやうやしく手の甲にキスを繰り返す鏡夜は眼鏡をはずした。
「先輩、ふざけるのいい加減にして…」
「ハルヒが素直に言わないからだ」
 先輩をここで殴るのも手かもしれない。こう毎回いやらしいことをされるのは堪らない。
「足を、開け」
「イヤですっ」
「無理矢理が好きなのか?」
「馬鹿!!」
「俺を馬鹿呼ばわりか、良い度胸だな」
「もう!だから無防備になるなってことでしょう?ちゃんと気を付けますからキスマークつけるのやめて下さいっ」
「目立つ所は避けた。俺以外の男が見たら、それは脱がされた時だからな。そんな事態をみすみ招いたらどうなるか…、分かっているのか?」
「大丈夫ですよ」
「ほう、護身が出来るのか?おまえは」
 鏡夜の語気が鋭くなる。
「明るいなら…、相手の気力が萎えるくらいつけたんでしょう?」
 疲れたような答えに鏡夜は笑った。
「暗いならどうする?」
「先輩呼びますよ、責任取ってもらわないと」
「おまえは本当に目が…離せない」
 掴んでいた手を離すとまぶたに、額にと軽いフェザーキスを落としてゆく。
「んっ…」
「しがみついていろ」
 耳許で囁かれる度、ハルヒはビクビクと身体を跳ねさせる。
「少しは抵抗を覚えないと身は守れないぞ…」
 声がかすれてひどく低い、怒っているのかもしれない。
「でも…、あっ‥ん、せ、先輩は自分を守るんでしょ…‥」
「馬鹿だな、そうしてるだろ」
 ハルヒはすっかり潤みきった瞳を見開いて頷く。
眼鏡をしていないのが惜しい、表情がよく見えない。でも、長い前髪も眼鏡も邪魔だ。
魔法のような手捌きで、一気に第三ボタンまではずすと無遠慮に舌や唇をなめらかな肌へと這わす。あられもない嬌声を楽しみながら熱さに我を忘れそうになった。



 呆けているハルヒに服を着込ませると鏡夜は何事もなかったかのように身体を離す。
「送る」
「ハイ…」
 汗ばむシャツをうっとうしそうにしながら、ハルヒはのろのろと歩く。こんなに色っぽいハルヒを野放しには出来ない。肌が紅潮して雰囲気も今すぐに溶けてしまいそうだ。老若男女問わず、押し倒して欲しいといわんばかりの。
鞄と手荷物だけ持ってやり、促す。おとなしく車へと乗り込むハルヒに少しだけ遣り過ぎたかもしれないと思った。
行き先は父親の蘭花さんからメールで知らされている、蘭花さんの仕事仲間が経営している金沢のペンションらしい。
 たった一人で不慣れな土地へ行くと聞いて心底呆れた。だから、少しだけ思い知らせてやろうと思ったのだ――。
「ミイラ盗りがミイラになったかな」
「先輩?」
 不信そうなハルヒに笑むだけで曖昧に答える。車が真夏の世界を滑り出す。ハルヒはしばらく睨んでいたが、やがて疲れからか肩にもたれかかって静かに寝息を立てた。



 カフェはクローズの札を下げておいた。配膳係の従業員の終業時間も知っている。誰かきたらと恥じらいすすり泣くハルヒに声を我慢しろ、と騙すのはひどく扇状的な気分にさせられた。
手放す気はない。それにはやはり有能な共犯者が必要だ、蘭花さんにはそれとなく役立ってもらわないとな。その代わりに目は離さない。



 ハルヒが聞いていたら絶対に泣いて固辞する物騒な決意をした鏡夜が、髪を短くし、優秀なボディガードを連れて金沢まで追い掛けてゆくのはまた別の話――。





《了》