晴れた日に


 うららかな陽が燦々と聖地に降り注いでいる。その、窓からも伺える陽気は切羽詰まった少女の心持ちと状況のなんの慰めにもなってはいなかった。窮地に近いのに窓の景色などみやりながら微笑む芸当が可能だろうか、いや、どうにも無理だ。
 試験中の我が身とか、育成すべき大陸を17歳にして保有している事実とか。あまつさえ、この試験でライバルに勝てば宇宙の女王になる事だとか。
そして何よりも今の差し迫った状態だとか。



 ロザリアは迷っていた。決断力と判断力に自信がない訳ではない、でも発揮するとなると状況次第だ。
「では、公園へ行きましょう」
「はい」
 大陸育成の要ともいえるサクリアを司っている上機嫌な水の守護聖に返せる答えはイエスのみ。折角これから一日を過ごそうというのだから機嫌を損ねたくはない。そう、一緒にいられるのは嬉しく想う。平日なのだから育成をしなければならないカリキュラムを堂々と無視してデートを選ぶ程には。
 リュミエール様はお忙しい、この機会は到底逃せるものではない。必然的に選択の余地は無かった。
 連れだたれ公園へ行く道すがら、二人で過ごせる期待に胸が一杯になってゆくのは止められない。胸に冷たい固過ぎるしこりがあったとしても。
 確かに天候には恵まれているのだし、外出は素敵。だけど最近のデートは公園が続いている、たまにはリュミエール様の大好きなハーブティーを用意して、のんびりとお部屋で誰にも邪魔される事なくデートをしたい。まだ知らないことも沢山あるからお話もしたい。
 表情を盗み見ると、やたら上機嫌で今更コース変更など無理なようだ。 聖地の公園は確かに活気に溢れていて賑やかである。そして美しい花園も、お好きだという噴水もある。でも、それだけで毎回行くかと云われてしまえば首を捻るし、何よりも飽いてしまう。そもそも外出なら噴水に負けず劣らずお好きだという森の湖だってある訳なのだし。
 公園は賑やか過ぎて人口密度が高過ぎて、他の守護聖様方やライバルのアンジェリークにも遭遇する危険地帯なのよね。
一番親密度が上がる場所でもあるけど、定期審査前の公園デートだけは避けなくてはならないわ。
デート相手以外の方と遭遇すると親密度が下がるのよね、明らかに。
来週は定期審査の週、これはもうお部屋デートにしたい。
「あの、公園も楽しいですね」
「えぇ、ロザリア。貴女が楽しいと…、私もお連れした甲斐があったというもの。気に入って下さったのならば次もまた、来ましょうね」
 まるで美神のような笑顔のリュミエール様に、私はクラクラしながら、それでも首は振らなかった。これはダメだわ、思い切って言ってしまいましょう。
「そうなんですの、私もとても公園が大好きなのですけれども毎回同じ場所では飽きてしまわれません?今度は私のお部屋にいらして下さいませ、とっておきのハーブティーも用意してあるんですの」
 リュミエール様はにこにこしていらっしゃる。
「あぁ、飽きたりはしませんよ、貴女が一緒ですし。不思議とこのところ気分が公園へ向かってしまっていて――。‥もしやロザリアに退屈な想いをさせてしまっていたのでしょうか?」
 すみません、と頭を下げられてしまってハイ、そうなんですとも云えなくて私は力の限りに頭を横に振った。
「とんでもないですわっ!!ちょっと美味しいと評判のハーブティーを御用意出来たので言ってみただけなんですの、私も、…私も気持ちは一緒です。こうやっていられて幸せで飽きたりなんて」
「いえ…、そのように無理をなさらないで下さい。私としたことが日々育成で疲れている貴女に気遣わせてしまうなど…」
「ち、違います。本当に楽しいですの、次も公園へ行きたいですわ」
「あぁ、本当ですか?良かった…、貴女は無理をされてる訳ではないのですね?」
「私、嘘は吐きません」
 嘘吐きは自分を嘘吐きとは言わないものだっていうのは本当ね。
「そうですか。ではまた、行きましょうね」
「はい、とっても楽しみですわ」
「ふふ、私もですよ」
 雰囲気は甘い。甘いけれども…‥これで定期審査は若干危なくなってしまった。



 私は部屋に着いてから盛大な溜息を吐いた。
この分だと明後日の日の曜日は間違いなく公園デートだわ、お気が変わらないかしら…‥。
元を正せば嘘を吐いた自分が悪い、だけどあんな哀しいお顔をされたら…誰だって心にもないことでも違いますと言ってしまうわ。
「あぁもうっ!」
 あれこれ考えても始まらないわね、言ったことは取り消せないし無かったことにも出来ないし。要は公園以外にお気持ちを向かわせれば良いのだわ、そうしたら問題ないもの。
 …そうはいっても、どうしたら良いのかしら?このままじゃ僅差のアンジェリークに追い付かれてしまうかもしれない。

私が敗けるだなんてあるはずないけれど油断は大敵、どうにかしないと。定期審査前だからきっとアンジェリーク、あの子も公園デートを狙ってくるかもしれないわね、そうするとハチ合わせの確率が高くなる。
ハチ合わせになると最初に居た方が東屋を出ないとならないから必然的にデートは中断、お流れ。お互い気不味くなってしまうハチ合わせ程厭なものはない。
「そうだわ」
 嘘も方便だって言うのなら体調が優れないことにしてしまって、お部屋デートに力業で持ち込むのはどうかしら?
お手紙に『日の曜日は迎えに来て下さい』と書くの、そして来て頂いてしまえば。
「……‥」
 いいえ、やっぱりこれはいけないわ。具合はどこも悪くないのだから、無理がある。それに心配させてしまう。
そんなの本意じゃない、心配をおかけしたい訳ではないもの。いっそ延期してしまいたいけれど延期なんてしてしまったらそれこそ嫌われてしまうかも。理由が私の都合だものね、これも駄目。
「――成るようにしか為らないわよ…ね」
 随分大雑把な結論だけど、これ以上嘘を吐くともっと面倒になりそうな気がする。それだったら腹を括った方が良いわ。
 決めてしまえば実行するだけ、なんだか一旦腹を括ってしまえばどうということもない気がしてきた。あの子だって必ずしも公園へ行く訳ではないでしょうし。
 もう、寝ましょう。そう考えたら一気に眠気が襲ってきた。ベッドへ入ると夢も見ず私は眠りに就いた。



 ロザリアは迷っていた。朝から鳴らされるチャイムの音に――。
「ルヴァ様だわ…、居ない振りをしてしまったら悪いわよね」
 即、定期審査に響いてしまう。それにわざわざ訪ねて下さっているのだし…‥。
「おはようございます、ルヴァ様。どうされたのですか?」
 丁寧にドアを開けるとルヴァ様がぎこちなく挨拶された。
「おはようございます、ロザリア。き、今日は良いお天気ですし、そのー息抜きでもと――、お誘いにきました」
「うふふ、ルヴァ様、聖地はいつでも良いお天気ですわ」
「はあ、そうですよねぇ、そうでしたよねぇ、あはははは。うんうん」
「それもこれも女王陛下の御力のお陰ですわ。風も心地良くて」
「えぇ気持ち良いですよねぇ、…‥って、それはそうなのですが」
「はい」
「あー、あの、そのですね、貴女を森の湖へお誘いしたいのです。いかがでしょうか?」
 私の答えは決まっている。ドアを開けたその時から。
「えぇ、喜んで」
「はあぁ~、良かった。私も嬉しいですよー。では、行きましょうか」
 そうしてルヴァ様と私は森の湖へ来た。久し振りに来たここは相変わらず綺麗で、昨夜寝不足気味だったことも消し飛んでしまいそう。
「ルヴァ様、ほらこんなに飛沫が綺麗!うふふ」
「あぁ、ロザリア、そんなに近づくと貴女まで濡れてしまいますよ」
「大丈夫ですわ、ほら、ルヴァ様も一緒に御覧になって」
 祈りの滝と呼ばれる美しい滝が私は大好きだった。つい、はしゃいでしまってルヴァ様の腕を引っ張った。
「わわっ!」
「きゃあっっ!!」
 いきなり引っ張ったものだから私達はバランスを崩した。咄嗟につんのめった私をルヴァ様が支えて下さる。どうにか転ばずにはすんだ。
「すみません!!私ったら…」
「あはは、こう見えても貴女を支える力くらいはあるんですよー。それに何だか嬉しいのですよ、いつも頑張り過ぎてる貴女がこんな風に笑っているのを見ると…‥まだ貴女が少女だと再認識するというか」
「はしゃぎすぎましたわね、すみません」
「良いんですよ、今日は息抜きの日ですから。そうそう、貴女を特別な…秘密の花園に御招待します」
「え?」
 いたずらっこのような笑顔のまま、人指し指を形の良い唇にあてる。訳が解らずにいる私を良いから良いからと、さっきとは逆に引っ張ってゆく。
 森を少し抜けると奥の方に見たことのない絶景が広がっていた。
「なんて綺麗…‥」
 色彩の渦、百花繚乱。私は大分見惚れてしまっていた。
「―‥…貴女と観たかった」
 お優しい声が胸に温かい。
「ここはですねー、普段立ち入り禁止なんです。まぁ、私が一緒なら咎める者も居ないでしょう」
「こんなに綺麗な所へ連れて頂けるなんて勿体ないですわ」
 ルヴァ様は眼を細めて首を振った。
「いいえ~、いつも頑張っている貴女へ私なりのプレゼントです」
「そんな…‥頑張るなんて当たり前ですもの、あの子だって頑張っていますし」
 どうしてかしら、ルヴァ様はとても悲しそうなお顔になった。
「ロザリア」
「はい」
「私は貴女に伝えなければならないことがあります」
「えぇ、なんでしょうか」
 こんな真剣なルヴァ様は初めて見たかもしれない。こわいくらい…‥。
「私は貴女に女王に成って欲しくありません」
「……え?」
 耳がおかしくなったのかしら。次いで視界が真っ暗になる。
「何度でも言います、私はロザリアには女王に成って欲しくありません」


「そ…それ…‥は、私が女王の資質が無い――ということでしょうか」
 みっともないくらいに膝がふるえている、唇もふるえてるのが判った。何か言わなくてはならないのに頭が真っ白になってしまって何も思いつかない。涙が出ないのが不思議なくらい目頭が熱い。
「…‥ロザリア、女王はアンジェリークに」
「否っ!!嫌ですわ、絶対にそんなのは厭!!試験は未だ終わっていませんでしょう?どうして結果も見ずに諦めろとおっしゃるのっっ」
 半ば叫ぶように私は全身で拒否した。私は女王候補だわ、そのためにここにいる。
そうでなければ何のために居るのか分からない。
「私に資質が足りないようでも試験は続けます、投げたりはしません!」
「いいえ、今、貴女には降りてもらいたいのです」
「どうして…‥?どうしてですの?私、ルヴァ様が応援してきて下さってどれだけ励まされたか分かりません、そのルヴァ様が降りろとおっしゃるのなら至らない点があったからだとは思います。でも、途中で投げ出すのだけは嫌」
「…試験はもう終盤です、今降りてもらえませんか」
 否と言おうとしたら強い力に拘束された。
「私は貴女が女王になることはもう望めなくなった、ロザリア…‥貴女を愛しています」
 もがこうとしていた全ての力がどんと衝撃を受けたみたいに抜けた。
「勝手なのは解っていますが、この気持ちを止められないのです――」
 肩が濡れる。ルヴァ様は泣いていた。
「ロザリア、貴女は誰よりも素晴らしい女王に成るでしょう、でも成ってしまったら二度とこんな時間はこないから」
 私はあまりの衝撃に立ち直れなくて口も開けない、息苦しくて仕方ない。
「…日の曜日、公園の、あの樹の下で貴女を待っています。繊細な貴女の重荷になる私を許して下さい…返事の内容はどっちでも下さいませんか?待っていますから、ずっと」
 言い終えるとルヴァ様は私を無言で寮まで送った。歩きながら頭が痛くなる程一生懸命考えた、よろけないようにはしたけれど足元まで危うい。
「では…また」
 それだけおっしゃってルヴァ様は私邸にお戻りになった。




 到底この夜は眠られなかった。心臓がばくばくして、うるさくて。
私は宇宙を担う女王候補なのだから恋をしてはいけない。
 思わず呟いた、
「どうして断らなかったの?」
 日の曜日を待つまでもない、断れば良かった。それなのにルヴァ様の真摯な瞳には逆らえなかったなんて。
 ルヴァ様は大好き。お優しくていつも色々な質問にも一つ一つ笑顔でお答え下さって。
女王候補ではない自分には戻ることは出来ない。だから女王候補である限りは女王を目指さないとならない、でも――。
あの瞳に見つめられて、揺らがないでいられるかしら。

 あぁ、何かが引っ掛かる。

 私はベッドから飛び起きた。
「日の曜日って、リュミエール様とのお約束の日じゃないっ!!」
 最悪かもしれない。約束を取り消すには今からではもう遅いわ、かといって『ずっと待ちます』というルヴァ様に答えも決まらないまま会いたくはないし。
「どうしたらいいのかしら…」



 ロザリアは迷っていた。これといった打開策も見つけられないまま無情にも昇る太陽が朝を連れてきたからだ。
「行かなくては…‥」
 連続の寝不足で眼球が破裂しそうに痛い、日光に溶けてしまいそうな錯覚すらしてきてしまう。
 土の曜日は大陸視察の日と定められている、民も私を待っている。行かなくては。
 あら、天井がぐるぐる回っているわ。…‥いいえ、回っているのは私の眼だわ…。
「しっかりしなくては」
 顔を洗えば少しはましになるかもしれない、洗面台で思い切り良く洗った。意識は多少ハッキリしてきた。ひとまず外出の用意を整えてしまう。体を伸ばしてから、王立研究院へと向かった。
 視察を終えると、くたくたになってしまって、寮のベッドまでは根性で辿り着いたものの、そこからの意識は無かった。


(…‥す―)
 聞き覚えのある声がする、でもよくは聞き取れない。目蓋が重くて開けられない。
(大――夫…‥すか?)
 今度はさっきより聞き取れた。
「あ…‥リュミエール様」
 眼をしばたたかせると切なそうなリュミエール様のお顔が見えた。
「ふらふらしている貴女を見掛けて、心配になって訪ねてしまいました」
「わた…し」
 ひどく眠い。
「お眠り下さい、明日は延期しましょう」
 ああ、リュミエール様には言わなくては――。
気力を振り絞って声を出そうとしても全然出てはくれない。
「お話…ある…‥ですの」


 やっとのことで出た声は自分のものとは思えない程かすれて低かった。
「…ロザリア?」
「お話が…‥」
「えぇ、分かりました、聞きますから今は眠って下さいね。貴女が起きても私は居ますから、安心してお休み下さい」
 リュミエール様のひんやりした手が気持ち良い。額に乗せられた優しい感触に力が抜ける、そのまま意識が途切れた。


 起きるとリュミエール様はちゃんといらした。ベッドの傍に椅子を持ってきて腰かけていらっしゃった。
「まだ、お眠り下さい」
「いえ…、大丈夫ですわ、何時間くらい眠ってしまっていたのでしょうか?」
 幾分寝たからか、気持ちの悪さとかも減っている。
「そうですね、五時間程度ですよ。丁度十八時ですから」
「夕方…‥」
 良かった、間に合う。
「あの、リュミエール様。お話があるんですの」
「はい」
「…私、突然のことなのですけれども、具合以外の理由で明日は公園へは、どなたとも行けなくなったのです」
 巧い詞が見つからない。
「それはどうしてですか?」
「…私に好意をお持ちの方がいらして明日、どうしてもお返事をしなくてはならなくなったのです。その方は私が来るまでずっと公園で待つとおっしゃいました、だから先にお約束していたのに申し訳ないのですけれど、その方にお返事したくて」
「そうだったのですか…」
「すみません、リュミエール様」
「いいえ、もう決めたのですか?」
 告げるべき答えは決まっていない。
「それが、まだ思案中で――」
「では、女王候補の座を降りる可能性があるということでしょうか?」
 私は即答出来なかった。するのは流石に憚られた。
「では、貴女を行かせる訳には参りません」
「すみません…、行かせて下さい、あの方はずっとお待ち下さるから」
 守護聖様としては当然の判断だわ、でも。
「行かせません」
「リュミエール様、申し訳ありません。どんなに反対されてもこれは譲れないのです…」
「ルヴァ様ですか?」
 心臓が跳ねた。
「えっ…‥」
「やはり、そうでしたか」
「あの」
「私が何故あれ程公園にこだわったのか…明かしてしまいましょう、理由は貴女です」
 意味が判らない。
「公園は人が多いものです、そこで貴女と居ればルヴァ様や貴女に好意を寄せる者への牽制になると思ったからなのです」
「リュミエール様?」
「貴女を…一時でも独占するのは常に私でありたかったからです。貴女は女王候補です、女王に成るのならば私は少しでも貴女にとって良い守護聖であろうと思いました。ですが、ルヴァ様を選ぶというのなら、私は…」
 思い詰めた深い海色の瞳から眼がそらせない、激しい緊張に全身が一気に硬直した。
「ロザリア、貴女を愛しています」
「そんな…‥、だって、今まで何もおっしゃらなかったのに」
 私は泣いていた。
 言えたなら言っていました、と苦しそうな声が耳許でした。
ひどく距離が近い。
「私を選んで下さいませんか」
「それは…‥」
 真直ぐな蒼い視線から逃れ、すっかり血の気を失ってしまっている手元を見た。
 考える時間はあまり残されていない、リュミエール様には今答えを返さなくてはならない。
 ルヴァ様とリュミエール様はどちらも好き、比べることは難しい。それにルヴァ様からお気持ちを聞くまで私は何があっても揺らがないと信じていた。女王候補は必ず女王になるか、女王補佐官になるものだって。そして油断さえしなければ私はおそらく女王に成れる。
「っ…‥!」
 いきなり手を取られた。慌てて引っ込めようとしても離して下さらない。ひんやりした感触はもうない、熱を帯びた手が重なって、ひどく狼狽えた。
「お離し下さい」
「いいえ、貴女からお答えを頂けるまでは離しません」
 海の深い深い所の色のような瞳、私の紫暗がかった青とはまるで違う。吐息がかかる程に、お顔が近くて気恥ずかしい。
「私は――、女王になりたくて聖地へ参りました。ですから女王以外の道はありません」
「…‥そうですね」
「そう信じて、進んで参りましたの」
 また、涙がこぼれた。哀しい訳じゃない、辛いというのも違う。じゃあ、これは何かしら。
「たとえロザリアが女王に成っても、私の気持ちは変わりません…愛しています」
 熱のこもった手が離れる。その手は私の涙で濡れていた。
「ロザリア…‥私の愛おしいひと」
 雨の音がする、聖地に珍しい雨はまるで悲しくても泣くことの出来ないリュミエール様の代わりに天が泣いているようだった。
 私はまた泣きたくなった。
「リュミエール様、リュミエール様…‥」
「すみません、私は貴女を泣かせることしか出来ない」
「いいえ、いいえ――」
 女王に成ることがこんなに胸が痛むものだとは…。私は本当に考えも覚悟も甘かったのだわ。



「そんなに泣かれて…あぁ、どうか涙を止めて下さいませんか。そうでないと私は」
 やわらかなものが目蓋に触れた。
「泣かないで下さい」
 頬を伝う涙も何もかもを温かな唇が拭ってゆく。私はこの方の手を離さなければ女王には成れない、だから身を任せていて良いはずはない。
「さらってしまいましょうか?」
「えっ…‥」
「泣き続ける貴女を前にして簡単に諦めてしまえる程度の気持ちで、想いを告げた訳ではないのです。ロザリアと共にあれるなら私は…」
「いけません、それ以上――おっしゃらないで」
「いいえ、私は貴女を失いたくない。」
「――…‥」
 私に何が言えたというのかしら。
あぁ、遠雷が聞こえる。雨が全てを押し流してくれればいいのに。
この方の激情も、私の劣情も。
 私は今まで、ただ清く潔く何時だってありたかった。でも今の私はその理想からかけ離れている、なんて遠い。
「私はリュミエール様が好きです。ずっと好きでした、そしてこれからも好きですわ。でも、ルヴァ様も好きです。」
 迷うことはしてはならないけれど。
「女王にはなりません」
「ロザリア!」
「違います、リュミエール様の手を取る訳にはまいりません。今、そう…はっきりと判りましたの。私は女王候補です。そうではない自分なんて考えられませんわ、私は愚かでしたのね、視野も世界も狭くて。本当にお恥ずかしい限りです」
 あまりにも至らない。
「宇宙を統べる女王の玉座にふさわしいといえません、女王はアンジェリークにこそふさわしいと」
 育成は最後まで続けるけれど私は女王にはならない。そしてなれない。
私は精一杯顔を上げて胸をそらした。
「試験が全て終わったら進退を決めようかと思いますわ、…‥ですからお気持ちには応えられません」
 最後はちゃんと言葉になっていたか判らない、嗚咽混じりだったから。
「それで宜しいのですか?」
 噛んで含めるようなそれに私は頭を下げる事で答えた。
「試験が終わったら…私の傍に居る、という選択肢は持てませんか?」
「えっ…?」
「今、試験を降りてとは云いません。全てが終わるまでに、貴女を振り向かせてみます。ルヴァ様より私を好きになるように」
 そんなこと、考えてもみなかった。
「まだ、貴女はここにいる。女王にはならないというのに試験を続ける貴女のように、私も最後まで投げたり諦めたりは致しません」
 初めてみる、子供のような笑顔だった。
「貴女と私はもう出会ったのですよ、そして私は譲れない」
 貴女だけが私の全て――。
やわらかく微笑むリュミエール様に私はただ、心のままにと想った。



 私はリュミエール様とルヴァ様のお申し出は断った、そしてアンジェリークの『ねぇ、補佐官になって頂戴』という申し出に頷いた。
今になって思えば悪くない選択だったと思うし。それからずっと補佐官のお仕事をしている。
たまにリュミエールやルヴァが『お茶を一緒に』と誘ってくれるのを心から申し訳なく思いながら。



「リュミエール、お茶はいかが?」
「えぇ、貴女のお誘いを断るはずがないでしょう?」
 私達は最近、二人だけでお茶をする。会話は余りないけれども。
立ち昇る紅茶の湯気越しに美しくも温かな微笑が投げ掛けられる、確かなそれに私も返さずにはいられない。
後、もう少ししたら伝えたい。美しい貴男に。
「退任したら、それでも私を選んで下さる?」
 と。






《了》