薔薇の名前

 

 祐巳は朝から、そわそわと落ち着きなく机に向かっている。
授業の終了を告げる本日最後の鐘の音が聞こえたと同時、やおら鞄を掴み足早に教室を後にした。たしなみとしてセーラーを翻らせてはならない校舎を出ると、息は自由に弾む。銀杏並木を潜り抜けて向かうのは常の薔薇の館ではない、寂れて久しい温室の方だ。

「お姉様ー!」
元気よく、たった一人の大好きなお姉様こと小笠原祥子様に仔犬よろしく駆け寄ってゆく。
祥子は突進してくる祐巳に抱きつかれた。
「お話って何ですか?」「…もう、話も何も。そんなに走ってきてはタイが曲がってしまうわよ」すっかり捻れたタイを目に止めて、祥子は眉間に皺を作った。そして仕方ないというようにタイを直す。
「試験中、ずっとお会い出来ませんでしたし、お電話頂いて私嬉しくて」「ふふ、だからって汗が出る程走っては駄目よ」咎める台詞とは裏腹に、口調は朗らかだ。
「…逢えて嬉しいんです」
あら、私もよとは性格上想っていた処で云えない祥子は祐巳をまぶしそうにみつめた。
「今日、貴女と一緒に観たいものがあったの」
「お姉様、何をですか?教えて下さい」
「それよ」
咲き始めの薔薇を指す。美しくも艶やかな深紅の薔薇ロサ・キネンシス。「貴女が植えた花よ」
ちいさな声に祐巳は薔薇に負けじとばかりに朱くなる。祥子の柔らかな身体から離れ、恥ずかしそうにうつむいた。
「どうして…」
「知っているかって?さぁ、どうしてかしらね」意地悪な祥子に祐巳は所在無げに立ち尽くす。
「お姉様の意地悪…」
「ねぇ、祐巳は私と一緒に観たかったのじゃない?」
「はいっ!それはそうです!!」
自信満々な祥子に押されて馬鹿みたいに祐巳は首を振ってしまった。そして振ってしまってから、慌てて口を両手で押さえた。
「…祐巳、薔薇の世話なんて大変だったでしょう?祐巳がこの花を育てているって知って、その意味に気が付かない程、私は鈍くはないの」
「お姉様…」
「ありがとう、祐巳。嬉しいわ」
ふわふわとした感触が祐巳を包む。今は二人きりだ、誰もいない。祥子に抱き締められて、うっとりと眼を閉じた。
「また、一緒に観て下さいますか?」
さらさらの祥子の髪に、祐巳は甘えるように触れる。
答えるように祥子は祐巳の髪のリボンをといて、そのリボンに口接けた。「祐巳とだけ…ね」
祥子のかすれたそれに、潤んだ祐巳の瞳が細められた。


薔薇はまさに今、咲こうとしていた――。

 

 

≪了≫