薔薇のささやき

 

 

 「馬鹿馬鹿しいわ…」
 瞳子はリリアン女子学園のモットーとする処の『淑女』からかけ離れたやたら勇ましい立ち姿で薔薇の館を後にした。
「瞳子ー、どうしたの?腕なんかまくっちゃって」
 乃梨子は日直で遅くなったらしく、ようやく来たらしい、ならば薔薇の館の惨状を知らないだろう。
「あーぁ、イヤだわ。今日はもう瞳子、演劇部へ行くわ」
「へ?どうして?だって先生いないし自主練だから朝から山百合会のお手伝いするって、あんなに張り切っていたじゃない」
「朝は朝、今は今よ。あなたも今は伺わない方がよくってよ」
「だから何で?」
 瞳子はいぶかしむ乃梨子へかがみこむと中腰のまま、挑戦的にビシッと人差し指を立てた。
「親切だから教えてさしあげてよ。犬と夫婦とかけて、おいしくないものよ」
「その心は?」
 本気で怒っているというよりも、呆れの勝る瞳子のふくれっ面が面白くて吹き出さないようにするのに苦心しつつも、乃梨子は努めて生真面目な顔を作った。
「痴・話・喧・嘩」
 やっと話がみえて乃梨子は大きく頷いた。
「あぁ~、祥子さまと祐巳さまね」
 くすくす笑う乃梨子をじろりと睨みつけ、それには答えず大股で瞳子は演劇部へと向かう。
確か、祥子さまを怪獣みたいと表した薔薇さまがいらしたらしいが、遠縁とはいえ親戚にあたる瞳子にも着実にその血は流れているとみえる。怒った時にのしのし歩く姿はとっても似ている。
「とは言ってもな~」
 流石にそんな処へ行くのは遠慮したい。折角の忠告もあったことなのだし…。
 ふわりと風が変わった。否、変わった気がして振り向くとお姉さまがいた。
「志摩子さん…」
「あら、どうしたの?難しい顔をして」
「ううん、瞳子が」
 言い掛けて、どう説明したものかと首を捻っていると、お姉さまが私の手を引っ張った。
「銀杏並木の辺りでも、お散歩しましょ」
「で、でも今忙しいんでしょ?山百合会」
「そうね、でも…、たまにはこういうのも良いのじゃないかしら」
 いたずらっ子のような笑顔に思わずなんて可愛いんだろうとか、いつも優等生の彼女がこんな笑顔をするのは滅多にないのにそれを見られているのは今、自分だけなのだとかやたらと感動してしまって、ここに瞳子がいないことを心からマリア様に感謝した。だって絶対に妹馬鹿って言われるもの――。
「うんっ、嬉しいな。志摩子さんと二人だけって久し振りだから」
「そう?一昨日だって一緒に帰ったじゃない」
「意地悪…、違うの、登下校以外でって話だよ」
 志摩子はきゅっと、握った手に力を込めた。
「そうね、そうだったわね」
 雲の絶え間から光が丁度射してきて、志摩子さんの頭に光の輪を作る。あぁ、お寺で生まれ育ったのに誰よりもマリア様みたいだ。
「乃梨子?」
 言葉を忘れたみたいだ、私はどうも志摩子さんの前ではよくこうなる。
「なんでもないよ、行こうよ」
 志摩子は腕に腕を絡める乃梨子の甘えが愛おしくて、ただその体温に目をつむった。

 


「お姉さまのわからず屋!」
「まあっ!!祐巳ったら本当に聞き分けないのねっ」
「‥…え、えとっ、それでも今回は私、諦めたりしませんから!」
 言い合いを始めてから大分経過しようとしているのに、収まる処かどんどん過熱してきている。
 でも固く誓ったのだ。言いたいことは蓄めずに云う、と。そうじゃないと精神衛生上よくないし云わなければ気持ちは伝わらない。ぶつかり合った分しか本物にならないのは祥子さまのお祖母さまが亡くなられたあの事件から痛烈に思い知ったことで。
「いーえ、お姉さまは最初私に全部任せるとおっしゃったじゃありませんか。だから来週のお出掛け先はプールです」
「遊園地って言ってたから私はそのつもりだったのよ?どうしてプールになるの」
 身体を動かした方がまだ滅入っている祥子さまには良いかもしれないと思ったのだけれど…。プールがダメとなるとビリヤードなんて出来ないしバッティングセンターはちょっとお誘いしにくいし。
私は頑張って主張することの困難さを感じた。普段やり慣れていないことをするのって大変だ。
 見ればお姉さまは肩で息をしていらっしゃる。私も慣れない言い合いに疲れてきて思わず弱音が出てしまった。
「――私、お姉さまには中々勝てない気がします…」
 勝ち負けの問題ではないけれども、試験も明けて二人っきりで過ごしたかっただけなのに、うまくゆかない。
「――お姉さまと一緒にいたいだけなんです。なのに、こんな喧嘩つまらないですね、‥どうしてうまくいかないんでしょうか。だからって思ったことを呑み込むだけじゃ前みたいになるしって」
「…‥そうなの?――私だって」
「え?」
「祐巳には全然勝っていないじゃない。勝てないってね、思っているのよ」
 ‥…どこがだろうか。
 思い当たらなくて、うんうん唸っていたらお姉さまの澄んだ笑い声が響こえた。
「祐巳ったら、本当にすぐ顔に出るのね」

「あ~、からかったんですか!?私、真剣に考えたのにっ」
「違うわよ、祐巳がね…」
 お姉さまの綺麗なお顔が急に近づいてきて私はどぎまぎした。でも、離れたくなくて硬直していると甘いささやきが耳元をくすぐる。何一つ逃したくなくて全神経を集中させた。


「祐巳がいないと楽しくないのよ?」


 ――ちっとも私は姉離れが出来ない。
「お姉さま…‥」
 私の狭くて子供じみた幼い世界はいつだってお姉さまを中心に回っていて。


「祐巳、返事は?」


「‥…はい、お姉さま」
 もう二度と、お姉さまのいなかった時には戻れないから。戻りたくもなくて。
「私は――、お姉さまだけが好き、他の誰よりもお姉さまだけが好きなんです。だからお姉さまも他の人を‥見ないで。今この一瞬だけでも良いんです、どうか私だけを…見て」
 涙がにじんだ。
ずっと言いたかったのはこれだけだったんだって分かったから。そして分かってしまったから、もう今までのようにはいられない。
「お姉さま…‥好き‥」
 言葉だけで何が伝えられるんだろう。
 この気持ちをどうしたら分かっていただけるんだろう。
「逢えないと私は私でいられなくなるんです。依存しているなって分かっていても逢えないと辛くて‥苦しくて…」
「馬鹿ね…‥」
 そうだ、私は馬鹿だ。
「本当に、祐巳は」
 泣き始めた祐巳に祥子はゆっくりと腕を回す。
「私だってあなたを好きって言ったのに信じてくれないのかしら…‥」
「いいえ!…いいえ、信じていないんじゃないんです、でも不安になって私では釣り合わないって思うと悲しくて、努力なんかじゃ追い付かなくて」
 ぼろぼろと涙をひっきりなしにあふれさせる祐巳の眼元を祥子はそっと、その白い指でぬぐう。
「あなたがあなたのままだから好きなんじゃない。私がいつ、あなたに変わって欲しいなんて言って?」
「でもっ…」
「ねぇ、そうやって私を遠避けないで――?お願いだから、私をあなたの中から違うものだからといって離れようとしないで」
 祥子は顔をくしゃくしゃにして泣く祐巳の頬を両手で優しく包む。
「今、私は祐巳だけを見ているのに釣り合う釣り合わないなんて考えないの」
「お姉さま…」
 どんな弾丸より強くお姉さまの言葉は私の胸を貫いた。

 ――私だけを見て下さっている?


「好きよ」


 どうしてこの瞬間に死ねないの。
 幸せなままに死ねたら良いのに。
 今、死ねたら後悔なんてなんにもないのに。


「祐巳、返事は?」


 お姉さまの温かな声に涙が落ちて止まらない。
「‥…好き‥」
 二人は見つめ合ったまま、どちらからとはいわずに自然に指をからめ合う。繰り返し、目の前にいることを確かめるように。
 ようやく祐巳の涙が止まるのを見て祥子は安心したように息を吐くと、祐巳のロザリオを懐かしそうに制服の上から細い指でなぞり続けた。

 

 

 つまらない、腹立だしい、とのしのし歩いていると生徒達の甲高い悲鳴が聞こえた。
 うん、血が騒ぐ。
「何なに?どうしたの!?」
 トレードマークの縦ロールを、くるんと回し、瞳子は悲鳴の起きている震源地へとひた走る。
 あっという間にたどり着いたそこは校門で、派手な赤の高級スポーツカーを門扉近くまで堂々と横付して車に寄りかかった男性がどうやら震源地らしい。それは見慣れた人物で瞳子は驚愕した。
「す、優兄さま!?」
 サングラスをかけても隠せない美貌、王子の愛称が当たり前に様になる非の打ち所なんて見当たらなさそうな自他共に認めるプレイボーイ。その彼はバツの悪そうな顔をした福沢祐巳そっくりの少年の肩を抱いていた。
「やぁ!瞳子ちゃん、良いところに」
 艶やかな微笑みに周囲の悲鳴が極限まで高まる。男性に免疫の無い女子校育ちのリリアンの生徒にとって、柏木優は少々刺激が強いようだ。悲鳴には慣れているらしく、苦笑を浮かべながら祐麒と一緒に瞳子へと歩きだす。
「さっちゃんと祐巳ちゃん、いるかな?」
「祥子さまと祐巳さまなら犬も喰わないような痴話喧嘩をしてますわ。今、伺ってもお話どころじゃなさそうですけど?」
「ははぁ、だってさ、ユキチ」
「祐巳の馬鹿…」
 相好を崩した柏木に対しユキチこと福沢祐麒、祐巳の双子の実弟はさも恨めしそうに薔薇の館の方角をにらんだ。
瞳子は話が見えず、ひたすら大きな眼をしばたたかせる。
「話が見えませんわ、瞳子にはナイショなお話なんですの?」
 不満そうにふくれた瞳子に柏木は愉快そうに首を振る。
「まさか。ちょっとユキチをお借りしたいのだけど丁度御両親は旅行中らしいし、せめて祐巳ちゃんには断らないといけないだろう?」
 おそらく祐巳を盾に取って難を逃れようとしていたらしい祐麒は絶望的な状況にも滅気ず悪足掻きをする。
「先輩、いくら試験が終わったからって外泊はちょっと…。それに俺には生徒会もあるし」
「駄目だよ、そんなこといってたまには息抜きしないと煮詰まるじゃないか」
「煮詰まらないよ、小林達もいるし」
「ふうん、疲れたから遊びたいって言ったのはユキチじゃないか」
「言ったけど、海外だなんて聞いてないっ!」
 顔の赤さに比例して取れてゆく敬語と、増すばかりのバカップルな会話に数十分前の薔薇の館での紅薔薇姉妹のやりとりが彷彿とされ、瞳子は本気で小笠原の血を引く者はこのたぬき顔に呪いでもかけられているのかしらと疑った。否、むしろこの愛敬があるといえる敵意を喪失せしめる一族が小笠原家の呪いを受けているのかもしれない。判然としないものの、因果を感じずにはいられなくて頭痛さえしてきた。
「ふふ、優兄さま朗報でしてよ。祐巳さまは祥子さまとデートですって。だからね、祐麒さまも祐巳さまに気兼ねなくデートあそばせ」
 自分の話ではないだろうに勝ち誇ったように宣言した瞳子に祐麒は血の気を失った。
「なんだ、さっちゃんもやるなぁ。僕らも負けていられないね、ユキチもそう思うだろ?」
 しるかー!!と怒鳴りたくても校門前で騒ぐのは憚られ、ただ尚一層祐麒は薔薇の館にあらん限りの呪咀(すそ)を放った。
「まぁ、そういうことですのよ。祐巳さまにはきちんと私から祐麒さまのことも申し上げておきますわ。だから存分にサマーヴァケイションお楽しみになってね」
「瞳子ちゃんは良い子だね」
 柏木の嬉々とした感謝に瞳子はあら、と返した。
「とんでもありませんわ、借りは後日の素敵な土産話で手を打ちましてよ」
 要するに完全に面白がって悪ノリしているのだ、しかしここには運悪く勢いのついた瞳子を止められる存在などなくて。優雅に深緑のスカートの端をもって、貴族令嬢よろしく礼をすると瞳子は薔薇の館へと駆け抜ける。
「瞳子ちゃん、ありがとう」
 満足そうに見送ると、一転柏木は祐麒を助手席へと促す。観念したのか祐麒はうなだれて乗り込み二人は校門を後にした。
 この一連の衆目を無視したやりとりは、ギャラリーこそ少なかったものの散々に尾鰭がついて、学園の少女達の妖しい噂の種にされるのは、また別の話。

 

「あーぁ、つまらなかったけれどこれで少しは面白くなるかしら?」
 走るとシスターや上級生に注意をされるから、スキップに切り替えて瞳子は目的地へと向かう。
「未来なんて、分からないから楽しいんだわ」
 こうやって、薔薇さま方の妹でもなんでもないのに山百合会のお手伝いをしている可南子と自分。宙ぶらりんで半端な浮いた存在。でもちっとも悲しくなんてないわ。
「私が祐巳さまの妹になったら小笠原の呪い伝説は完璧よね!でも、可南子が由乃さまの妹になるのも考えずらいし~…」
 傾向を分析するなら、紅薔薇さま方は世話焼きで。
白薔薇さま方は問題児。黄薔薇さま方は真っしぐら。
「だったら瞳子はサーモンピンクかな、ぜーんぶ併せもってるから」
 下馬評なんて気にしない。いつだって私は私。
「でも、変わるんでしょうね」
 自分よりも相手を好きになってしまったら。
「恋は呪いね、そして最高の呪術に違いない」
 鍛えた腹筋でオペラのアリアを歌う歌手のようにさえずるとスッキリした。
「ね?祥子お姉さま、優兄さま?」
 見上げると空は夕暮れになろうとしている、瞳子は感傷的になる訳もなく、ただうきうきと歩くテンポを早めるだけだ。
愛らしい、縦ロールを弾むように揺らしながら。

 

 


《了》